不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

皆礎石たれば

昨夜は都内の座禅会の後、帰路に就こうとしたところ山手線の人身事故のため、迂回路を取らざるを得なくなり、たまたま東京大学の横を歩くことになりました。

世界では60何番目とか言われていますが、日本の最高学府です。

色々言われることがあってもやはり日本の重要な部分を担うことになる人たちが多くいることは間違いありません。

私の知り合いにも「高学歴至上主義」の人を散見します。

私は普通にそういう人が好きではありません。

そういうと、「じゃあ学歴が低くても良いのか」と揶揄されそうですが、そういう意味ではありません。

二つの小石のグループがあるとします。その小石たちは積み上げられて塔を成します。

一つのグループの石たちは、誰もがてっぺんの石になろうとします。

もう一つのグループの石たちは、みんな礎石であっても構わないと思います。

さて、どちらのグループが塔を建てられるのでしょうか。

言うまでもありませんね。

最初のグループはいつになっても塔を作ることができません。

高き志は持つべきです。いや、人として生まれたからには持たねばなりません。

その「高き志」はてっぺんの石を目指すことでしょうか?

違うと思います。

後者のグループにはたぶん、思い遣りや感謝、他人(他石)の思いを推し量るという作業があります。

本来人の社会はこうあるべきではなかったでしょうか。

頂点に立てた人は、自分がここに至るまでに、大勢の人に支えられてきたということを実感として感じられるような感性の持ち主でなければならないと思います。

頂点に立てなかった石も同じ石が頂点に立てた事への誇りを持てるような、そんな教育が重要だと思います。

故にそういう社会では例えば普通はあまり人がやりたがらぬ掃除員やゴミ収集員であっても敬意を以て接することができます。

今の社会は寒くなってきています。それはたぶん、こういう考えがなくなってきたからだと思うのです。

自らが懸命に生きて、その結果他人を利することがあったら、自分が不幸であっても喜べるような、そんな教育こそが人類全体の未来を拓いていく上では重要ではないかと思います。

今、息子と「プラネテス」という、21世紀後半の宇宙開発を取り扱ったアニメを見ていますが、21世紀後半というと、息子が老境にさしかかる頃の話しです。

私は息子に言います。

「俺はこんな素晴らしい宇宙開拓時代を見ることはできないけど、それをする人たちの一人、お前を育てていくことはできる。それは嬉しいことだ。」

また、「お前は夢の超光速宇宙船が建造されるまでは生きてはいないと思うが、それを研究して建造しようとする人を育てることはできる」とも言います。

何のことはない、今までしてきた人の営みです。こういう普遍的に行われてきたことをこれからも確実にしていくことが、日本や世界をよりよくしていく上で、重要ではないかと思った次第です。

平成二十五年霜月十一日

不動庵 碧洲齋