昨今の幼児教育を見ていると、どうもなんか勘違いしていそうな親ありきのような気がします。
我が子が神童の誉れに預かり、大人になっても高い収入を得たり、社会的に名声を上げたり、あわよくば歴史に名を残すということを考えていることでしょう。
しかし歴史上、幼児教育がなされて名を挙げた人物が一体どれほどいるのか?
勉強ができることと、社会的地位が高いことはある意味別のことです。
・・・と、心ある教育者たちはそう言い続けてきますが、あまり賢くない親たちは幼い頃から優れた能力を開発させることに喜びを感じているようです。
私はこういう現象に対してはかなり否定的です。
幼児教育そのものが悪いわけではありません。むしろ推奨します。
ただ、その意義や目的が正しくない、明確でなかったらむしろすべきではありません。
私は幼児教育とは智慧の種を子供たちに埋め込む作業ではないかと思います。
"wisdom"を子供たちの心に植え込む。
間違っても幼児教育が子供たちに"knowledge"を満たすものであってはならないと思います。
智慧の種を植え込んで、それを発芽させて生長させる。これが本来の幼児教育ではないかと思っています。
本やインターネットでは探しようのない命題やテーマを探し出せる能力を身に付けさせるための学習だと思います。
これが英語がうまく話せるだとか、記憶力が高いとか、そういう猿芝居に陥ってしまうようであれば幼児教育はすべきではないと思います。子供は親の虚栄心を満足させるための道具ではない。ちょっと高いスーパーカーを所有するような気持ちであってはならないと思います。
にんげんはどうして生まれるのか。
かみさまはいるのか、いないのか。
ほとけさまはどこにいる?
どうしていきものをころしてはいけないのか。
なぜいきものはしんでしまうのか。
こころはどんなものか。
これは息子が今まで出してきた問いですが、こういう問いを発しない子供はまず親に問題があるのではないかとすら思います。また、親はこういう問いに対して一緒になって考え悩む力が必要です。馬鹿馬鹿しいとか、分からないとか一蹴する親は失格です。
こういう問題を解決する能力を養うための幼児教育です。
これをいい学校に上げるための利便性などと愚かしいことを考えていたら、子供の、いや人間の未来を抹消してしまうようなことになります。日本が没落しないためにも、もっともっと親は長い目、広い目で子供たちがいるであろう、何十年先、100年先の未来を見据えて育てていきたいものです。
平成二十五年霜月十一日
不動庵 碧洲齋