昨日は6時前から座禅会があり、ずっと坐った後、本堂に場所を替えて老師の提唱を聞いていたところに地震がありました。木造の比較的古い、しかも大きな建物です。全体的に木材とガラスが大合唱したかのような音を立てながら揺れました。
ここにはかれこれ6年ぐらい通っているので、何度か似たような事はありましたが、今回は比較的大きかったように思います。
古参の参加者たちも私を含めて浮き足立ち、周囲を見渡しました。
が、老師だけは全く動じもせずに提唱を続けていました。
武芸を少しかじっていると、無理をしているのか、敢て無視しているのか、我慢しているのかという心理がある程度分かるものですが、老師の提唱の声はそういうものではなく、全く常日頃と変わらぬ声でした。
この老師は次期鎌倉建長寺管長として指名されている程の方ですが、今まで見てきた限りでは、何とも普通に模範的な、ある意味あまりにも普通な言動をする方でしたが、今回のことで改めて老師にまで上り詰めた方の胆力の凄さを思い知らされました。
(今まであまりおもしろいことを言ってくれない老師だと思っていました。スミマセン)
普通我々はストレスのかかる事が発生すると、排除、無視、忍耐、対抗、反抗、などをするか、もうちょっとマシなレベルになると、あえて気にしないような努力をします。しかし「気にしない」のは「気にする」の反対でしかありません。
不動心というのは本来そういう低いレベルなどではなく、「動いていながら動かない」もしくは「動かないながら動いている」というものです。
満水のプールの中に在って、水が乱舞していようとも、水の中は平穏そのもの。傍から見ても動いていません。乱舞している水もそれが分かりません。それが宇宙スケールで起きた場合が不動明王の不動心ではなかろうかと思います。あのような躍動感溢れた仏像なのに、名前が「不動」です。この説明は以前、師匠が語ってくれたことです。私如きの見解などではありません。
力一杯動いていながら、静謐さを湛えた水のような姿。
そこには「動いている」⇔「動いていない」、「生きている」⇔「死んでいる」、「ある」⇔「ない」などといった相対的な見方から離れた境地があります。
私は今、まだそれを知識として知っているレベルですが、死ぬまでにそれを自分が体得した境涯としてみたいといつも願っています。
平成二十五年霜月十一日
不動庵 碧洲齋