不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

自由について思ったこと

どの言語でも同じですが、抽象的な概念ほど単語が一致しないことが多くあります。

例えば「心」。英語には完全に一致する単語がありません。

近いと思われる単語はこんなところでしょうか。

heart:

一見これが一番近そうですが、日本語の「心」は完全抽象概念であり、heartの別の意味である「心臓」とは全く別物です。完全抽象物である「心」が具象物である「心臓」と一緒というのは頂けません。また、「心を読む」場合にはheartは使われないので、やはりぴったりではありません。

mind:

個人的には「精神」が一番しっくりきます。こちらの場合は色々観察して、比較的客観化できる対象ではないかと思います。従って「心を読む」場合はこちらの単語がよく使われるようです。

spirit:

こちらはやや宗教的な意味での精神で使われます。日本語でも「スピリチュアル系?」といえばパワースポットだとか不特定自然信仰系と認識されています。

soul:

こちらはspiritよりは宗教色が薄い意味での精神、よく魂と訳されますが、原語は生命の根源ですから魂の訳はなかなか良いと思います。

このように「心」ですら、ほぼ一致する英単語が見当たりません。ちなみに日本語の「心」はタマがコロコロ転がる様が原義だそうです。つまり喜怒哀楽のある人の中に在る不安定なタマ/霊、という感じでしょうか。(女性の心そのものだと思うのは私だけ?・笑)日本人は「心」を完全に感情的なものとは捉えていませんが、さりとて維新前後に訳された「精神」のような学術用語でもないとも思っていないと言った辺りでしょうか。

禅仏教の文言などを訳しているとこういう問題が頻発して、かろうじて仕事で使っている程度でしかない、私の英語力の限界を感じさせられます。

自由という言葉があります。

一説によると福沢諭吉が「liberty」から訳すに当って、仏教用語の「自らに由る」を参考にしたと言うことです。

英語を使っていると、ものによっては微妙な使い分けをすることがあるのですが、この自由も同じで、これも二つほど、よく使われる訳語があります。

freedom と liberty です。こちらはそんなに難しくはなく、前者が哲学的な意味で後者が政治的な意味です。freedomは人間の哲学上の命題や理想的な意味合いで用いられるのに対してlibertyは束縛や抑圧から解放されたという意味での自由です。米国憲法の前文ではまさにlibertyが使われています。

日本語訳の場合、どういう訳か「自由」と一括りにされています。私は長らくこの理由が知りたいと思っていたのですが、最近、禅を学んでいるうちに何となく分かってきたような気がしました。

私は以前、ちょっとMAKE A WISH JAPAN(MAWJ)というボランティア団体の会合に出たことがあります。余裕が出てきたらまた参加したいと思っているのですが、この団体は不治の病に冒された、余命長くない子供の願いを一つだけ叶えてあげるという組織です。この運動はアメリカで始まったものでしたが、日本でも行われています。何で知ったのか覚えていないのですが、ずっと気になっている運動です。そのうち息子と一緒に参加してみたいと考えています。

さて、この中で重要な資料があります。それは「ウィッシュリスト」というリストです。言うまでもなくこれはこの団体が認可した、余命少ない子供たちの希望が列挙されたリストです。子供によっては本当に最後の最後に叶えたい夢のはずなのですが、私はこれを見たとき、ある意味愕然としました。

希望覧に一番多く記されていたのは「TDL」。言わずと知れた東京ディズニーランドです。かなり多くの子供がそう書いていました。

最後かもしれない夢なのに、どうしてもっと違う夢が見られないものかと、ショックを受けました。これはもちろん子供が悪いわけではなく、その親にも問題があると思います。ご両親たちはもちろん、子供の大病でそういうことを言っていられないのかもしれません。でも子供の想像力は金太郎飴では決してありません。子供の想像力は本来、ものすごく豊かなもののはずです。ひとりひとりが、MAWJのメンバーを困らせるぐらいの無理難題な夢を持って欲しいと思いました。(無責任な発言で本当にスミマセン) もし、万が一、うちの息子が同じ状況になったら、息子はきっと、他の子供が決して考えつかないような希望を言うだろうと思います。

自由の話しです。「自らに由る」です。でもこの事例のように私たちは本当に「自らに由って」いるのかどうか。テレビCMやネットCMに惑わされ、他人の風説噂話にあたふたし、他人がしたことや持っているモノに心奪われ、「タラ・レバ・カモ」の食材に舌鼓を打つ・・・。そうではなくて自分本来のあるべきものに由らねばなりません。他人がディズニーランドに行ったから、自分も行きたいと思う、のではありません。特に日本人はこの辺りの信念というか意志が薄弱な気がします。たぶん、日本は近代以前にどこかの国や民族と戦って独立や自由を勝ち得たという歴史がないからなのでしょう。

自らに由る、というのはある意味日本では難しい土壌があるのかも知れません。統率が取れた中で保証されていた生活があり、日本人はその中で精一杯生きてきました。たぶん俺が俺がという、ガリガリ(どこかの僧侶は我利我利と書いていましたが、なかなかの訳です・笑)した欲望ではなく、自己を無にして一心に生きるという日本のスタイルと、欧米から来た自由は相容れないのかも知れません。そもそも人は社会のあちこちで縛られています。ロビンソン・クルーソでもない限りは、完全な自由などありません。(・・・という意味でlibertyの意義は正しい)私もかつてとても憧れましたが、宇宙海賊キャプテンハーロックが言っていた自由すら、本来は自由ではありません。

最近は禅などを少々かじって、ふとそんなことを思いました。少しの自由、多くの自由などと言っている内は、まだまだ他に由る生き方でしかない「他由」の生き方。心だけでも何ものにも囚われない、本然の自分でありたいと・・・思うのでした。

平成二十五年霜月八日

不動庵 碧洲齋