私は留学して間もない頃、上映された二つの映画を鑑賞しました。
一つは「グローリー」もう一つは「ドライビング Miss デイジー」。
「グローリー」は南北戦争時代の話しで、当時劣勢にあった連邦軍(北軍)が起死回生を狙って黒人たちを初めて兵士として起用し、北軍で最初に黒人が兵士として編成された部隊(士官は白人)の話しです。もちろん実話ですが、私はこのときから南北戦争に興味を覚え、留学中、南北戦争の史跡をよく回ったものです。今なお好きな映画の一つです。
もう一つの映画は富豪のユダヤ人の老婦人と黒人ドライバーの温かい交流を描いたもの。日本にいるとなかなかピンときませんが、米国においてユダヤ人も黒人も今なお差別されている人種です。若い頃はあまり関心のある映画ではありませんでしたが、そんなに有名になった映画ではないにもかかわらず、ここ最近は何故か記憶が甦ってきます。
そう言えばどちらにもモーガン・フリーマン氏が出演しています。
この頃が初めて映画で準主役級に抜擢された頃のようです。
しかし見たときから彼の独特の雰囲気に引き込まれました。若造だった自分にも、彼の静かで深い人柄には敬意を持たざるを得ないほどでした。
何と言うか「世界のお父さん/おじいさん」を代表するような方です。
先ほどwikipediaでも彼の記事を読みましたが、彼の思想は私も諸手を挙げて支持したいぐらい。やはりただ者ではありませんね。本当に素晴らしい方です。
その「ドライビング Miss デイジー」での話し、たぶん終わりの方だったと思うのですが、突然認知症が出てきて錯乱状態だったユダヤ人の主人を、フリーマン演じる黒人ドライバーが優しく宥めると彼女は言いました。「You are my best friend.」
英語には「friend」と「mate」という単語があります。私が持っている電子辞書(ジーニアス)で紐解いてみると、その一番目にはこのように書かれています。
friend
(原義:愛人、友人)
1 (親しい)友だち、友人、仲よし
mate
(原義:食事を共にする者)
1 仲間、友だち
日本では仲間と友だちはかなりイコールですが、英語圏では違うと思います。一緒に勉強する人たち:クラスメイト、部屋を共にする人たち:ルームメイト、ナントカメイトは場所や事をシェアする人たちであって、必ずしも「友」ではないこともあります。社会生活的に協力し合わねばならない関係ですが、そこから友だちになるかどうかはその人たち次第です。たぶん、日本人はその辺りをちょっと誤解/曲解/拡大解釈しているような気がします。
つまり相手から「You are my friend」と言われたら、「mate」以上の友だちになれたという事ですね。じゃあ相手からよく「You are my friend」と言われるのがいいのかと言えばそうでもなく。気安くそう呼ばれるのは相手が安請け合いする浅慮の人なのか、自分が熟慮されるほど重要な人間でないかのどちらか、もしくは両方です。私もよく知らない相手から気安くそう呼ばれるのは好きではありません。SNSでの交流が活発になってから、私をそう呼ぶ人もいますが、何度か会っていてもそんなに親しくもなく、やり取りもないのにそう呼ぶことはいかがなものかと思います。(故にフェイスブックではフレンドリクエスト、と呼称している以上はリクエストの受理には慎重になって欲しいと思いますが)
もっとも逆に一度も会ったことがなくとも「これは・・・」と思う人も確かにいます。これは会うまでもなく、相手が迷惑でなければまさしく「friend」です。これはこれでインターネットの力を発揮していると思います。
子供時代や青春時代からの友人がいる人は幸せだと思いますが、最近はあまりうらやましいとも思わなくなりました。基本、人は常に進化します。その過程で価値観や思想、人生観は変わっていくものです。変わっても付き合っていけるという人もいますが、やはり普通に生きていたらそれはそれでなかなか難しいのではないかと私などは思うのです。まあ、心が狭いとか、キャパが狭いとかそういうものかも知れませんが。
「とも」は「友・共・供・朋・倶・具」の漢字が当てはめられているように、英語ではたぶん「with」に近いような意味が原義かと思われます。もしかしたら助詞の「と(and)」や「も(too/also)」から来ているのかも知れません。故に成長に比して共通概念がなくなり、合わなくなってきたら「とも」であり続けるのはなかなか難しいのではと思いますが、そういうと人倫的に少々誤解を受けてしまうので、成長を拒否する、安住の地に居着いている、安寧な生活を享受している、努力をしない、まあそういう人は道を分かつというよりも志が違うという意味で「とも」たり得ないが、道が違うとも精進する人は「とも」たり得る、と言っておきます。
そうすると人は常に変化し、精進するのが定めなのかなと思います。また、人との繋がりに無関心だったり、疎遠だったりするのもあまりよろしくないのかとも思います。私も決して社交的というわけではありませんが、人間が人間たる所以は社会単位で何をか他の動物が成し遂げられないようなことをやってのけるところにあります。他の動物にできないことをする、それが人の定めなら人はやはり社会に在って自らの役割を果たすべきではないかと思います。
昨今のエゴイスティックなほどの個人主義や自由主義、ひいてはそれに端を発する犯罪や醜聞はその人間社会を揺るがしかねない要素でもあります。人類が皆、ロビンソン・クルーソーのようだったら他の動物よりも弱小です。そういうのが社会に一人二人、スナフキンのような感じの人がいてもいいと思いますが、みんながみんなロビンソン・クルーソーやスナフキンだったら社会は根底から成り立ちません。私ですら彼らには今でもとても憧れますが、今はそれはそれ、これはこれと割り切れるものがあります。今の自分、今の在り方を楽しみつつ、在り潰れる。そこに自分も他人もなく、その在ることに成り尽す、これだけだと思います。勝手な想像ですが、昔の人も「俺が俺が」ではなく、その社会に在っての状態になりきる、そういう人が多かったのではないかと思います。
平成二十五年神無月二十四日
不動庵 碧洲齋