今朝の朝食時に息子と興味深い話をしました。
息子はどうやら時々、ごく一部のクラスメートからある程度勉強ができることからいじめと言うほどでないにしても、冷やかしのようなことをされるようです。
また、特定の一部がクラスメートの一部をいじめるのを目撃するようです。
(ただそんなに深刻なものではなく、やはりちょっとした悪戯とか冷やかしという程度だと感じました)
故に勉強が抜きん出て優れていると言うことが、みんなとの共同生活をする上で必ずしもよいとは思わないとのこと。また、不得意な分野の努力をするのはあまり意義を感じないとのこと。
みんながみんな、全く同じ、平等であれば、それはやがて全体の衰退を招くと言うこと。共産党の国はみなそうなって弱っていった。ソ連はなくなってしまったし、北朝鮮は人類最悪の国家、中国も世界最大のご迷惑国家であるという事実に、息子は十分納得したようです。(息子は共産国家の理念は概ね理解しています)一番いいのはみんながみんな努力して全体を上げていかねばならないが、それが難しいから何人かが突出して持ち上げているという図式。みんなが同じだったら科学力も技術力も芸術も全部落ちていってしまう。
宇宙ができて、やがてなくなるまで、自分という人間はたったの一度しか現れない。そのたった一度しかないチャンスを「普通に」する行為は、果たして仏の御心にかなっているのか?「普通」でよければ何故、仏はわざわざ手間暇かけて全く違うものを生み出しているのか?「その存在」が「ベスト」を尽して成せることが、この宇宙を構成する大事な要素になっているのではないか?存在していることも重要だが、その存在はタネのようなもので、花を咲かさねばならないのではないか?
息子は自分よりもっともっと勉強ができる人がいると言います。(息子はクラスではかなりできる方のはずなのですが)タネは朝顔のタネであることもあるし、クスノキのタネであるかもしれない。植えて数日後に花咲くかも知れないし、100年後かも知れない。問題なのは花咲かせるようの努力すること。
学校の教育はもちろん、ベストを尽してよりよい成績を出すことが求められる場所でもあるが、更に教育で重要な事はベストを尽しているその努力と工夫をすること。その努力や工夫をしている苦労が、大人になって役立つ。
息子はそれでも優秀な生徒に与えられる賞などは自分には取れないと諦め、悔しがります。
前人未踏の事をするならともかく、誰かが取ったことのあることを成し遂げようと思った場合、それは不可能ではないと言いました。今や人は宇宙にも行ってますし、月にも進出しています。火星に行くのも時間の問題です。だから不可能なことではなく、努力すればできることだと言うと、何となく納得してくれました。特に息子には非常に明確な目標があり、それを目指しています。夢だけ持っていてあまり忍耐や努力しない人間、夢は大きくとも創意工夫のための努力をしない人間はやはりどこかバランスの悪い人間のように思います。(決して私のバランスがいいというわけではありませんが)息子はそれを理解してくれたようです。よかった(笑)。それにしてもベストを尽す事への執念には頭が下がります。
いじめについて。
私自身、息子ぐらいの歳から中学校卒業ぐらいまでいじめられたことが多かったので、こういう問題に関してはある程度専門家?(苦笑)です。故にいじめに関しては少々エラそうに言わせてもらっても差し支えないと自負してます(笑)。
クラスにはおおまかに3種類の人間がいると話しました。
いじめる人、いじめられる人、どちらでもない人。
この中で一番悪いのはどちら側にでも付く準備をしている「どちらでもない人」。そして僻んだり羨んだりしていじめるような人間になるぐらいなら、いじめられるような人間になって、手が出ないほどに優秀に、強くなればよいと言いました。
大人になって、いじめた人と、いじめられて強くなった人と、どちらでもなかった人、誰が一番敬意を持たれるか?
宇宙に行った時、その三種類の人間がいたら、誰が一番信頼できるか?
息子にとって、とてもクリアーな問題のようでした。
宇宙に行って仕事をする、その時自分がすべき事、協力できる人を見分ける能力がとても重要だという結論になりました。
私などは人より抜きん出るほどの成績でもなかったし、人柄でも魅力できでもなかった、しかもいじめられていたというのだから目も当てられませんが、そういう経験を無視せず正しく見つめ、何をか得られることを慮ることが、次の世代の教育に活かせるのではないかと、最近は思うようになりました。
平成二十五年神無月十八日
不動庵 碧洲齋