不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

生死一如のこと

2013年神無月14日に鎌倉・建長寺にて、管長吉田正道老師の法話をまとめたもの

苦楽と申します。

私などはアナログ人間ですが、職務が職務なので、やむなく携帯電話を持たされます。でもアナログなので電話帳には建長寺の事務所と(失念)と良く行く深川のお寺の番号しか入ってません。必要なときは電話帳から探して電話します。

今の世の中は恐ろしいぐらい便利になっています。携帯電話、メール、インターネットの便利さは恐ろしいくらいです。でもその恐ろしいほどの便利さ、インターネットができる前にある程度生きてきた人間じゃないと分からないんですよね。インターネットができてから生まれてきた人には、世界中のことが一瞬で知ることや、つながっていることが普通だと思って生きている。不便を知る故に便利が分かるということです。不便が分からないのに便利が分かるはずもない。コンビニも同じです。いつでも開いているのは便利ですが、昔のように夜は店が閉まっていることを知っている人には便利だと映っても、そうでない人には便利でも何でもない。

苦労も同じで、苦労したことがない人は楽が楽ではない。苦労を経験した人だからこそ、希にやってくる楽しみがとても有難く感じます。楽しみに感謝できない人はどういう人でも苦労を知らない人、苦労を避けてきた人です。だから感謝を知らない人というのは、ある意味、苦労を舐め尽くした人ではないんですね。楽しいことが去って行ったときに後悔する人は、楽しさを味わい尽していない。同じ事です。

生死一如のこと

生きることは素晴らしく、死ぬのは誰でもイヤだと申します。

しかし大抵の人は、死ぬ間際になって「死にたくないと」往生際が悪いことが多い。死ぬ前に、生きている内にしたいことがあったとか、そういう理由で死にたくない人が多い。

その一瞬を徹底的に生きる。生き切る。それが死ぬ時に死に切れることにつながります。死ぬ間際に悔やむ人は生きている内に一生懸命に生きていなかった証。

浄土真宗では極楽があると言っています。

南無阿弥陀仏を唱えれば後できっと極楽浄土に行ける、と言ってますがあれは方便で、苦しいさなかに一心に南無阿弥陀仏を唱えているその中に極楽浄土があります。

苦しみに徹底する、楽しさに徹底する、禅ではこのように言いますが、言い方が違うだけで同じ事です。

呼吸と同じです。吸い切る、吐き切る。これが自然とできてない人はちゃんと生き切っていない。考えもせず、執着もせず吸ったり吐いたりするようになる。考えもせずに今その瞬間を呼吸のように生きる。決着のある生き方ですね。

大死一番

大活現前

あまりうまくまとまっていません。あちこち抜けていたり、記憶を元に書いたので、ご容赦下さい。これの前のブログで紹介した霊樹院・政栄宗禅老師はこの吉田管長猊下印可を受けています。つまり弟子に当ります。

平成二十五年神無月十六日

不動庵 碧洲齋