不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

すべては燃えている

この三連休はなかなか充実した3日間でしたが、ある種の人はどこぞのイジワルな神様のように高い塔を壊したり、繁栄した文明を水に流したりするのが好きな人もいるらしい。破壊衝動とか言われていますが、程度に差こそあれ、誰もが持っている感情らしいです。(ちなみに私もあまりひどい奴には鉄拳を喰らわせたいと思う感情が渦巻くことを否定しませんが)

感情のままに当たり散らす人に対してある程度理解をしてあげることは慈悲と言わずとも最低限のエチケットなのかも知れない。とはいえ、一歩進んである程度理解する以上に分かり合いたいとはあまり思いません。そういう人はそもそも感情を激化させているその中に平安を求めているのであって、問題を正しい心を以て正しいタイミングで正しく伝え、正しく解決することそのものではないから。

そういう人と一緒にがっぷり四つになって組み合えば、怨恨憎念の燃えさかる炎が自らに及びます。勝手な想像ですが、それはきっととても美しい炎に見えるのかも知れません。人が引きずられて行ってしまうような美しさのような気がします。そうでなかったらこの世はもう少し争いが少ないと思います。ふらふらっと釣られてクルクルっと巻いてしまう、怨恨憎念の燃えさかる炎にはそんなもののようなイメージを持っています。

その炎はなかなか厄介です。一緒に燃えたら燃えたで、空になって炎が燃え移らなかったら燃え移らなかったで、もちろん水になって相対したら相対したで、やはり激化する一方です。一人で勝手に燃えるだけならまだしも、それはたぶん周囲に何か悪い影響を与えんがために燃えさかっている気がします。もちろんその炎で人が幸せになることは拒みますが、不幸になればもっと燃えさかってしまいます。燃えていることそのものが目的であり、それによって安寧を得るのは燃えている人だけです。というか自分以外に安寧を得させたくないばかりに燃えさかっているのかも知れません。

お釈迦様も「すべては燃えている。なにによって燃えているのか? 貪欲の火によって、嫌悪の火によって、迷いの火によって燃えている。誕生・老衰・死・憂い・悲しみ・苦痛・悩み・悶えによって燃えているのだ。」とおっしゃっています。私的にはそれらを単純に諦観し、その炎から逃れられない人々を蔑視するというのは人の心持ちを蔑ろにするものだと思っています。師がよく言う「それ」のど真ん中にある、そのもの、それをよく識る力、眼力を持たねばならないといつも思います。

そういうことで朝っぱらから水をぶっかけられてしまったという体ですが、じつはこの三日間に得たことは非常に大きく、水は水に火は火に還る、もしくは水と火が分かれる以前を見据えはじめた私には、そういうことですらいつもとは違った観え方に感じたのでした。

画像

鎌倉建長寺 半僧坊から海を見る

平成二十五年神無月十五日

不動庵 碧洲齋