不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

老師の提唱から

個人の都合で世界を整えようとすると他人が迷惑する。

人間の都合で世界を整えようとすると自然破壊が起る。

猫の都合で世界を整えようとすると他の動物が苦しむ。

犬の都合で世界を整えようとしても同じ事。

各々の持つ物差しで世界を整えようとするからどこかで必ず不都合が生じる。

だからそのままの有り様が即仏の有り様。

良し悪しという判断を捨ててそれをそのままに己を埋没させる。

昨日出席した座禅会にて老師がおっしゃったことです。

(多少わかりやすくアレンジしました)

もちろん人は道徳心や正義を以て行動し、寛容の心を持たねばなりませんが、最近辟易させられるのは「これは正しく、あれは正しくない」とか「こっちは味方で、あっちは敵」という感じのものの考え方です。自分だけ、自分の同調したグループだけ、自分の国家だけ、もしくは人類だけ、そういう考え方があるから世の中に争いが絶えないのかなと思います。最近はようやくほんの少しずつですが、上記の言っている意味が体感として分かりつつある気がします。

面前にあるものを差別する(禅ではしゃべつといいます)。それは仏から離れて自我の物差しに手を伸ばした瞬間でもあります。一歩譲って「あ、うまそう」とか「おっ、美人だ」とか思っても次の瞬間には川の流れのように流してしまう。持った物差しを惜しげもなく放り捨てる、多分禅ではこのような在り方が求められると思います。

国によってはネチネチと半世紀以上も言いがかりを付けねば己のアイデンティティを発現できない哀れな国もあります。人でも他人を批判して己の正統性を掲げないと落ち着かない人もいます。炎を掲げてそれに照らし出さないと存在を認識できないようなものではないかと思います。まあ、心地よい程度の炎ならいいのでしょうが、どうにも最近は人でも国でも火傷しそうな感じです。そのものの存在は炎の照らし具合には因りません。己の炎に照らされなかったからと言って、存在しないことにはなりません。最近は狂気的に松明を振り回して周囲に火事を撒き散らしているような人が多く見かけられます。そういう人は元々の自己の正しさを証明するという当初の使命も忘れて、完全にご迷惑な人になってしまっています。

自分のアイデンティティを求めるのに歴史上の偉業とか持ち出す必要はありません。歴史上の人たちは皆、今自分ができることを粛々と実行して、その結果が歴史に刻まれたに過ぎません。だから刻まれてない歴史にも体感として感謝ができる人はすごいと思います。それよりも私たちは今、自分たちができることを全力でやり尽くすことが、例えば日本のためであり家族のためであり自分自身のためです。(私もイマイチ努力が足りてません、はい)

私も日清日露の英雄たちを尊敬して止みませんし、古の武芸者たちを仰ぎ見てはため息もつきます。しかしそれだけであって、それを自分が誇るのは間違いです。自分の為すことを継続して完遂するためにのみ誇るのが正しいのではないかと思います。そしてそれがまた要らぬ対立を起こすようなものであればやはりその誇りも間違いです。既にこの世にいない人たちには見えてます。仏の世界に戻った人たちから観たら、対立ばかりして、対立のために自分たちを持ち上げることは間違いであると思っていることでしょう。

自分が正しいと思うあまりに仲間を求めます。そしてそこでも摩擦が絶えない。正しくないと思っている人がいたらそれはすでに最初から完全にアウトなのです。そもそも宇宙開闢以来、何一つとして全く同じものがないのに同じ価値観を求めたり、同じ製品を作ろうとしている人間の方がそもそも異常です。私などは昔はひどく主観が強く、エゴの塊でしたが、年齢のせいか禅に出会ったせいか素晴らしい友人たちに出会ったせいか、多分全部でしょうけど、まずまず年齢に何とか及第しているような境地になってきた観があります、多分(笑)。同年代でも世界に躍進している人たちなどはもっともっと素晴らしく輝いた、そして実体験に即した悟りというか信念があるんでしょうね。

「ひとつ屋根の下」で江口洋介さん演じた柏木達也が言った台詞があります。

「許すとか、人はそんなに偉いものじゃないと思います」

最近になってとても気になるセリフになってきました。

まあ、他人に大きく実害を与えない限り、社会風俗に違反しない限りはなるべく自分の物差しは持たないように心掛け、相手を許す許さぬとは思わないようにしてますし、逆に間違っていたら托鉢でもするつもりで謝ります。相手が許すとか許さないとか、そんな計算はしません。謝ったらさっぱり流す。真剣に謝ったら後は自分の問題ではありませんから。シャワーと同じで流すほどに気持ちがいい。

プライドが高いと低頭平身で謝れないものですよね。昔の私なんてまさにそうでした。禅を行じるようになってからはもっと本質的なものに迫れるようになりました。仏教には大いに感謝しています。

そういう意味では基督教はなかなか良くできた宗教だなと思います。最近ではフランシスコ法王猊下以下、カトリックは大躍進しそうな案配です。仏教も負けてはいられません。

ま、そんなことを思った日曜日でした。

平成二十五年長月九日

不動庵 碧洲齋