不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

月に想ったこと

師事している私の先生は宗家の稽古にはほとんど欠かさず出席しています。多分、他の古参の先生たち以上に出ています。宗家の受けというのはこれなかなか厳しいというかきついのですが、当然ながら体のあちこちに故障が発生してしまいます。

来週、先生は膝の手術をするのですが、27年間師事してきて初めてのことではないかと思います。人は皆いつまでも子供ではないように(ま、いつまでも子供の人がいるにしても)やがて老いてこの世とオサラバします。決して狭いわけではないのですが、それでも険しい一方通行の道を進むだけです。

若いときはあれこれ掛け持ちしながら鼻歌交じりで歩いていた道も、年齢と共にその歩きや道の精度を高めるために、集中せねばならぬ事もまたあります。というか人生に必要なモノは元々そんなに多くはなく、歳と共に必要不要の見分けが付くかどうかということが、よい意味で老成してきたのかどうかという基準ではないかと思います。

長くしていることだからこれからも必要だとは限りません。今知ったことは重要でないとも限りません。そういうものに対する目が養えているかどうか、そしてその為の行動が無心にできるかどうかが肝要なのではないかと思った次第。執着、利己心、己込みの勘定、こういうことがどれだけ削ぎ落とせるか。削ぎ落としてどれだけ本質に迫れるか。

削ぎ落としたい理由も私の場合は明確です。別段格好付けているからではありません。死に際にはなるべく無一物に近くありたいからです。死ぬ間際、無一物に近かったらものすごくよく見えるものがあるのではないかと思います。また、死ぬ間際の苦しみも減るのではないかと思った次第。なので、人生の半ば、折り返し地点に立った今、今まで得てきたことをどんどん捨てています。それに無一物に近い状態だったら霊が仏になるまで四十九日もかかることもなかろうと思います(笑)。

最近は捨てることに関してはサラリとできますが、何かを得ようとするときに苦しみます。それが必要だからなのか欲しいからなのか。本当は欲しいだけなのに、必要だからと、言い訳をする自分がまだいる。本然に従えてはいてもまだ痛みが伴います。これが厳しい禅の僧堂などにいたら、もっと本質的なものが見えてくるのでしょうが。まだまだ修行が足りない。遥か彼方を粛々と歩いている禅の先輩方を仰ぎつつ、ため息ばかりしていても仕方ないので、まずは歩きます。

道場のなんちゃって古参としては、これから先、師を今まで以上にサポートしていかねばならないと昨日は痛感させられました。「やってくれ」「いやです」と言うくらいなら最初からこの道を歩んではいません。自分で極めようと決めた道、自分だけの道です。黙々と、しかしできるだけ最大限の精力を注ぎ込んで参りたいと思う次第です。

十六夜

月に懸かりし

雲もなく

己が道照る

夜の静寂に

昨夜は誠に美しい満月でした。

平成二十五年長月二十日

不動庵 碧洲齋