不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

私のノートから

私は日頃からありとあらゆる事をできるだけテキストエディターに保存しています。

後で調べ物をするときにとても便利だからです。

その中から見返してちょっと気になった資料など・・・。

これは多分、多分、私を心配してくれていた友人が教えてくれたものだと思います。オリジナルはこちらから。

http://www.f5.dion.ne.jp/~with/kinyoubi.htm#kousin

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認知の歪みには、次のような種類があります。

① 白か黒か、全か無か

「白でなければ黒でしかない」「一発殴るのも10発殴るのも一緒だ」

「1番でなければ、意味がない」「合格しなければ、努力していないと同じことだ」

② 一般化のし過ぎ

「いつも…」とか「決して…」という考え方、ものの言い方をする。

③ 心にフィルターがかかっている

たったひとつの些細な欠点だけを捉えて、他の事柄を全て無視してしまう。

④ プラスの否認

成功や喜びの価値を割り引いてしまう。

「こんなことで嬉しがっていたら、足元を救われてしまう」

「こんなことで喜んでいたら、後で落胆した時のショックが大きい」

⑤ 早まった結論

具体的な根拠もないまま、勝手に結論を急ぎ、物事を否定的に考えてしまう。

「あの人は、私のことをを嫌っているに違いない」

「周囲の人は、きっと私のことを馬鹿だと思っているんだ」

⑥ 拡大視と縮小視

自分の抱える問題や短所を必要以上に大袈裟に考え、自分の能力や長所を低く見積もること。

「太っている私は、人間として魅力がない。肌がキレイだなんて関係がない。私の人生は、痩せれば全てがうまくいくんだ」

「肌荒れの激しい私は、醜くて気持ちが悪い。スタイルがいいだなんて関係がない。私の人生は、肌がスベスベになれば、全てがうまくいくんだ」

⑦ 感情論に走る

「嫌なものは嫌」「ダメなものはダメ」「出来ないといったら出来ない」

⑧ ねばならない主義

「…すべきである」「…しなければならない」「…するのが当然である」というものの考え方や言動をする。

⑨ レッテル貼り

自分で勝手に物事を決めてしまう。

「親の愛を知らない私が、暖かい家庭を築ける筈がない」

「一人っ子は、わがままだ」「あの人は神経質だ」「男性は乱暴だ」など。

⑩ 自己中心思考

「悪いのは自分だ」と、

直接自分には関係のないことにまで責任を感じ、自分を責めてしまう。

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これは私が精神的に一番どん底にあった時期、2007年後半頃に知ったものだと推測します。それまで私は武芸を通じて、鉄壁の精神力を持っていると思っていましたが、幾つかの艱難が重なると全く弱いもの。振り返ってみればそれはもう笑ってしまうほど弱いものでした。「自分は弱い!」と普通に認めると楽になれるというものです。そうすれば、そんなときにこそ手を差し伸べてくれる人たちのありがたさ、艱難が降り注がれる意義、そういうものがスーッと見えてくるものです。一旦、そういうものが見えると人は更に強くなれます。私はそういう在り方でよいと思っています。

私に限らず、誰にも心の問題はあるはずですが、そのアプローチ方法も様々です。最近ではうつ病が大発生しています。これは人が弱くなったと言うよりも、社会が人に適応しない方に、もしくは適応できないスピードで暴走したという観があります。

私もうつ症状が出ているのでその状況を続けたら症状ではなくうつ病に移行するかもしれないと言われたときは深刻の度合いが分かりました。

私にはツイてないことが多々ありますが、ツイていることも結構あります。まず本気の時はおよそ考えられる限り素晴らしい師に出会えると言うこと。この場合は禅の師でした。禅自体はこの5年ぐらい前から少しかじっていましたが、このときは藁にもすがる気持ちで探しました。そういうときにはあるものですね。これが今でも師事しているS老師とO老師、どちらも臨済宗においてなかなかの方です。

禅によって自分の求めるところがより一層見えてきた気がします。残念ながら私が禅を始めたのは上記の通り武芸とは全く関係のないところ。武芸が全く役立たなかったところを埋め合わせるためでした。まあ私の精進が足りなかったのでしょう。私にとって武芸は人生の半分程度しか役立っていなかったようです。

禅を本格的に始めてから上記の10箇条がよく見えるようになりました。如何にこれらを透過するか、最初はとても難しく感じましたが、今の私にはそれほど難しくは感じません。(どれだけ実践できているかというのは別として)多分歪んだ認知というのは大幅に修正されたのではないかと考えています。

私の知り合いに怖いぐらいほとんどこれら全部当てはまっている人がいます。

こういう人は自分のみならず、他人をも精神的に追い詰めてしまうような部分があるように思います。(私が知る限りではその知り合いはそういうことが幾度となくあったようです)思い返せば私もそういう部分がなかったとは言いきれません。自分に対する自己主観の異常な強さが認知の歪みに通じているのだと想像します。いずれにしてもそんなものに囚われると普通の人でも近寄りがたい怪物になってしまいます。

こういうものは直せるものなのでしょうか?

私は精神医学には詳しくないので分かりませんが、そもそも心というものは治せるものなのかどうか、いつも疑問に思います。(つまり心に対して「治す」という語彙が正しいのかどうか、という意味)

あるかどうかも定かではない他人の心を直すことなど、到底できそうにないように思います。自分で気付かない限りは自分をあるべき処に戻すことは可能なのでしょうか。あるべき処を指し示したり、導くぐらいだと思います。

そういう意味で禅は私にとてもよい視点を与えてくれました。自分を「無」とする視点。自分を勘定に入れない見積もり。あれとこれ、自分と他人という相対的な視点をなくせば、上記のような認知の歪みもなくなろうというもの。少なくとも私はこれで危機を乗り越えられました。我利我利亡者を止めると、スッと楽になります。

上記の「認知の歪み」みなさんはどのくらい当てはまりますか?

平成二十五年長月十八日

不動庵 碧洲齋