出生も判然としない底辺から上り詰めたという意味では、彼以上の出世頭は日本史の中にはあまり見られない。
創作はかなりあるにしても、本人の機転や勇気のあることは間違いなかったと察します。そうでなかったらあの織田信長の配下で大きくなることは非常に難しかったと思います。
織田信長という、平凡とはかけ離れたリーダーの下であったからこそ成長もできた秀吉ですが、その努力たるや多分、我々とは質的に違っていたのではないかと思います。
朝鮮出兵に関して、私はもうちょっとうまくやったら、弱体化していた明軍をも撃破できたのではないかと思っています。朝鮮軍に関しては全く論外。現実に明はその後50年弱で滅んでいることを考えると、やはり日本はよく中国を見ています。遣唐使の廃止についてもやはり中国の情勢をよく見極めた上での決定です。国が傾くときは意外に大きな音がするものです。
この朝鮮出兵では意外に戦死者が少なかったこと。病死などが多かったというのは当時日本人は戦闘のプロが多かったという事でしょう。中国の各王朝では終末期になると大抵、農民軍よりも正規軍の方が弱くなっています。明王朝終焉まで50年弱だと、ほどよく弱体化している頃合いです。意外に日本人はよく見ていたのかも知れません。日本にそれができたのかどうか分かりませんが、このときに海外とのやり取りに経験値を積んでいたら現代においてかなり有利に働いていたのにと思います。異文化に対する施政、交流、支配については残念ながら日本は今に至っても三流以下です。
秀吉のとんちのうまさと同じぐらい有名なのが派手好き。貧しかった頃の鬱憤を晴らすかのように、ど派手です。そこは彼が代々侍の家系ではなかったから仕方がなかったのかも知れません。「格」は金で買えます。しかし「品」は三代かかると言われています。秀吉にはその品がなかったのだと思います。もっとも品がなかったからこそ、型破りなことができたとも言えますが。
信長・秀吉・家康の中ではもっとも残念な終わり方をしているように思います。執着が多すぎ(笑)。なまじ権力者だった故にその執着は残った人たちにまで迷惑をかけています。これは褒められたものではない。偉人を見習わせるなら、秀吉の終末はあまり覚えがめでたくないところです。
若い頃は信長のように反逆されて殺されたいという願望がありましたが、今は家康のように普通に死にたいと思います。また、死後に禍根を残すようなことにはなりたくないとも思いますので、そういう意味では秀吉の死に様はいささか栄えあるものではなかったと思います。
日本では桜のような散り方が良しとされています。この辺りのセンスは外国人にはなかなか分からない部分でもあります。パッと咲いてさっと散る。跡形も残さない。そういう潔さは西洋人から見ると何とも不思議に映るようです。しかし私たち日本人は「自己」なるものが「自己」にあるとは思っていません。国だったり主君だったり、何か尽力した物事の中にこそ本然の自己が息づいていると考えています。
もっとも秀吉の生き様も、戦国時代にあっては異彩を放ち、日本史の中に燦然と輝いていることには違いありません。
平成二十五年長月十八日
不動庵 碧洲齋