不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

血の分け方

今朝も早暁からとても蒸し暑い一日でした。

今朝は座禅会がありました。4時半に起床して、5時に家を出ます。

新学期前と言うことで息子にも勧めたのですが、ちょっと・・・と言って辞退していました。

実は僅差で起きられず、着替えたときは私は車で出てしまったそうです。

(驚くことに仕方ないので1時間弱、和室で一人で座っていたとか・笑)

確かに座布団が折り曲げて置いてありました。イヤイヤ関心関心。

次週は行くそうです。

寺は建長寺派の中でも大本山に次ぐ寺格ということもあり(多分)、立派な座禅堂があります。夏はすべて開け放って坐ります。座禅堂には蚊取り線香が焚かれていますが、当然隅々にまで行き渡るはずもなく、森がすぐそばにあるので蚊が容赦なく入ってきます。

常連は虫除けなどを付けてくるのですが、今日は何故か忘れました。(笑)

私は5時半から坐り始めていると、早速蚊がぶんぶんと・・・。

もちろんいったん坐り始めたら蚊を追いやるなんてことはしません。刺されるがままです。

6時近くなると不幸なことに隣にたぶん僧堂に入る前の見習い僧が坐りました。親の寺でも継ぐんで仕方なくやっているんだろうなぁ・・・というような所作と雰囲気を漂わせています(笑)。

そしてこともあろうに私が坐っている横で、手の甲に飛んできた蚊を「ペシッ」と叩きました。

今時の僧侶は総じてこんなレベルなのか、ネット上で知り合っている僧侶の皆様のレベルを鑑みると、彼は批難されて然りだとは思ったのですが・・・

よっぽど「僧堂で僧が殺生するか!」と言いかけましたものの、手本となるべき常連が声を立ててはならんと思い、批難の言葉をぐいと腹に納めて坐り続けました。

蚊が吸う血は1滴にも足りません。献血では数百ミリリットル、血液検査でも注射器2本分は抜かれますが、私たちはこれを好ましいものととらえます。ところが蚊に吸われる微量には殺生を以て臨んでしまいます。

「私」がある限り、方や善、方や悪と分け隔ててしまいます。差別してしまいます。

蚊も仏の表れであり、私も然り。さすれば本来、同一にして違う現れ方をしただけのものにこのような自我の物差しなどないはずです。

その妄想たる自我の物差しを手放す作業が禅の修行ならば、これは喜んで手放そう。

そう思うと、自然、蚊の攻撃が気にならなくなりました。(しかも実際に刺されて箇所はせいぜい1.2カ所でした)

そういう気づきが血の1滴程度なら大いに安いというものです。

私たちは自分自身の物差しで善悪を測ります。

宇宙全体は自分の物差しでは全く測れないのを知っているのに、笑ってしまうほど小さく仮初めの自分の物差しで森羅万象を差別します。本来そんなことは不可能です。宇宙はそんな風にはできていません。それを知りつつ、小さい自我で積み重ねてきたものを根拠にして、血眼になって心身労してあれやこれやと差別(仏教用語では"しゃべつ"と言います)して、安心の拠所にします。

多分、それがあるから人はいつも不安なのではないかと思います。(言っている自分だっていつも不安の塊ですけど)

だから一歩進んで相手の気持ちになってものを考えられると言うことは、相手の物差しを慮ることができるという点では優れていますし、優れた禅の修行者は物差しを持たない状態を知っています。

私は物差しに拠らない、手づかみの感覚を知りたいと、禅に励んでいます。

たぶんその途上で何か色々なことが分かるのかもしれませんが、私ごとき凡庸というか邪念がありそうな凡俗には分かりそうなことの、その微細な鱗片しか見いだせないのだと思います。しかしそれでも私にはかけがいのない、大切な気づきとしていただいています。

今日はお行儀のよくない修行僧から始まり、蚊に刺されたこと。

そのお陰なのか、その後の老師の提唱、無門関第九則がほんの少し違って見えたような気がしました。

これからも自分という存在を織り込んで打算したり、自分の物差しで推し量ったりしないように心がけたいところです。

平成二五年長月朔日

不動庵 碧洲齋