不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

世界に向かって語る理由 弐

祖母は今の高崎市の貧農の娘でした。そこを取り仕切っていた庄屋の二男坊か三男坊と恋仲になり、浅草に駆け落ちしたそうです。浅草では鼻緒を作る職人になりました。

戦争が始まっても祖父はやや身体が弱かったため、赤紙は来なかったのですが、1944年初頭にとうとう赤紙が来たそうです。祖父は周囲の人が出征したのに自分だけここにいることに恥じらいを感じていたそうです。

父になった今、私は彼の心情が手づかみでよく分かります。見えぬ巨大な敵のために皆が立ち上がっていっているのに自分だけここにいる悔しさは、戦前の日本人が持っていた心情そのものだったと思います。

しかしその年の秋頃、戦死が知らされました。祖父は最後のサイパン島増援部隊の輸送を担う輸送船団の乗組員でした。最近、やっと乗っていた船とおぼしき候補を幾つか、見つけることができましたが特定には至っていません。

そして祖父を出征に見送って約1年後、今度は東京大空襲に遭っています。2歳ぐらいの幼児一人に6歳と4歳の娘を女の身一つでした。さぞや心細かったに違いありません。命からがら自宅から最寄りの防空壕まで走ったそうですが、不幸なことに米海軍の艦載機、多分戦闘機だったと思いますが、捕まってしまいました。戦闘機は当てるつもりがあったのかなかったのか、祖母たちに銃撃を何度も加えてきたそうです。当時次女だった母はその時の恐怖を何度も語ってくれました。しかし数回の銃撃後、戦闘機は顔を識別できるほど低空で旋回して、窓を開けにこやかに手を振って去っていったそうです。

それから終戦。当時住んでいた家は焼けてしまったそうです。果たして祖母の心情はどんなものだったのでしょうか。今の私たちには全く想像も付きません。現代だったらさしずめ一家心中でしょうか?しかし祖母は生き延びました。

運がいいことに、実は祖母はなかなかの資産家と一度、再婚しました。どういう縁だったのかは知りません。家政婦さんが何人もいた、結構大きな屋敷に住んでいたそうです。しかし1年ぐらいでそこで働いていた家政婦さんと不倫の仲になり、祖母はまた、子供たちと焼け野原に放り出されてしまいました。再婚相手の子供も一人いましたが、祖母に付いてきたようです。またその前後だったか、戦災孤児の女の子を一人、どのような縁でもらい受けたのか既に知るよしもありませんがもらい受けたそうです。つまり女手一つで自分の子供3人と再婚相手の子供、戦災孤児合計5人を育てました。母曰く、子供は4人でも5人でも同じ事。困っている人がいたら一人でも助けようと思うのが人間だろう、というのが祖母の口癖だったそうです。

新たに住処としたのは今の南千住、清川町。今でも日雇い労働者の安宿が多くあるところです。毎日家族総出で鼻緒を作っては、小学生だった叔母か母が毎朝、浅草の松屋まで大人の自転車に乗って届け、日銭をもらっていたそうです。当然、それによって遅刻することもしばしばあったとか。

言うまでもなくとても貧乏でした。母は昭和15年生まれですから中学校3年生の時は昭和30年になります。その時でさえ、時々弁当が持てなかったり、サツマイモだったりしたそうです。一度などは掃除中にクラスメートの机を倒してしまい、中から弁当が飛び散ったのですが、その弁当が鮭弁当だったので弁償できなくて強気の母が泣いてしまったと言っていました。そのくらい貧乏でした。

母は高校には行かず、大きな問屋に住み込みで数年働かされたそうです。小公女セーラおしんかというような生活だったと言っていました。今、手元に母がその頃に書いたであろう日記があるのですが、今のイジメなどは何とも可愛いものだと言うほど、忙しく辛いものだったようです。

住み込みの仕事は多分、弟と半分しか血の繋がっていない弟2人を高校に入れるためではなかったかと思います。その後、母は自宅に戻って祖母の手伝いをしていましたが、昭和39年頃、たまたま母の実家の近所を映画の撮影のために来ていた父が母を見初めて結婚しました。それでも最初は祖母の金持ちに対する不信感は根強く、交際を申し込みに来た父にバケツの水をぶっかけ、「うちの娘は皇室に入ってもおかしくないくらい厳しくしつけているんだ、お前みたいなサラリーマンになんかやれるか」と言って追い返したそうです(笑)。

その後両親は結婚して、私が生まれました。昭和44年でしたが、私の家には生まれたときから自家用車もカラーテレビもエアコンもあり、今思うと普通よりはよい暮らしだったかも知れません。

祖母は私が4歳の時に58歳でガンで他界しました。とてもよくしてくれたということしか記憶にありません。しかし後に母から色々聞かされ、やはり尊敬する1人になっています。

その頃の話しです。

余命あと2.3ヶ月というところで祖母は看病に来ていた母に鉛筆とノート、それとアルファベットのテキストを買ってくるよう頼んだそうです。驚いた母は祖母にその理由を尋ねました。ちなみにその頃まで、母はアメリカ人が嫌いだったそうです。戦争で父を亡くすことさえなければ、あんなどん底の生活には至らなかったのに、ということだったようです。

祖母は病床にいる間、ずっと考えていたと言ったそうです。戦争が起ったのはお互いどちらの国もよく知らなかったから。話し合うこともなければ知る機会もなかったから。なるべく多くの国民が互いに顔を合わせて話し合えばきっと避けることもできたはず、だから今から英語を勉強するのだと言ったそうです。

おぼろげで良く覚えていませんが、順天堂大学付属病院の見晴らしのよい病室で、祖母が手紙ではない何かを懸命に書いていたのを見たことがあります。

いつだったか、私にはどちらの祖父も他界していたことに不満を持ち、母に言ったことがあります。

「おじいちゃんはアメリカ人に殺されたんだよね?」

母は言いました。

「いいえ、おじいちゃんは戦争に殺されたの。」

その時は全く理解できませんでしたが、今はよく分かります。憎しみは憎しみしか生みません。

憎しみから愛情や慈悲は絶対に生まれません。ごく普通に考えれば分かることです。

その後、私は当流に入門して、広く世界の人と語り合うようになりました。母は私が日本語教師の仕事を始めたのをきっかけに、英会話を一時学びました。多分、母も祖母が言っていたことを実践したかったのだと思います。実際、短い間でしたが、私の豪州のホストファミリーと交流が持てて非常に喜んでいました。

その後、母はやはり58歳で祖母と同じガンで他界してしまいました。

私の英語を学ぶ原点がどこにあるのかというなら、多分このことだろうと思います。先日、同門後輩の米国人が日本の神社で彼の道場に対して「武運長久祈願」を祈祷してもらいました。その神社では戦時中、米兵を撃破せんが為、多くの将兵が出征前、まさに武運長久を祈願してもらったことだと思います。しかし70年後、武芸を通じて世界平和を志す米国人青年が同じ祈祷を受けています。私の、いや、祖母からずっと願っていた平和の一部が成就したものだと感じました。祖母が願っていた世界がほんのちょっとだけ、形になりました。品が出来上がるのは3代かかるそうですが、本物の何かが出来上がるのもそのくらいはかかるのではないでしょうか。ここに至るまで3代かかりました。

祖父については顔も知りません。でも分かります。彼は決して、鬼畜米英を世界から撃滅して、世界を平和にしようなどと考えてはいません。目には見えない巨大な敵が日本に侵攻してくることを1分1秒でも遅らせることさえできれば、少しでも家族を生き長らえさせればと願ったはずです。敵を憎めとか、殲滅などどうでもよいこと。戦場で散っていった将兵たちは今何を想っているのか、私には分かる気がします。よりよい未来を作り上げるために死ぬほど生き尽くしてくれと願っていると思います。その未来を担う子供たちを大事にしてくれと願っていると思います。しかしそれはどの国の将兵とて同じ事。死んで後まで、護国の神などと思われたら大いに迷惑です。私たちは徹底的によりよい未来のために人事を尽さねばならないと思います。どこかの国が攻めてこないように、どこかの国が攻めてきても守って下さるように、そんなばかげたことで英霊たちを利用するなと言いたい。

私は祖父母の願い、両親が願っていたとおり、なるべくたくさんの人々と、なるべく深く語ってきました。かつて敵だった米国、英国、露国、中国、仏国には友人がいて、領土問題や歴史問題、核兵器の問題など、色々話したことがあります。それ以外でもほぼ全ての欧州諸国の人々、大半の南北アメリカ諸国の人々、東南アジア、西アジアの人々などとも仕事などでも今でも話すことがあります。

インターネットが普及したおかげで、より多くの海外の友人たちと語れるようになりました。これはとても大きい。逆にそう言う便利なものを使って、内向きに不毛なことや建設的でないことを延々と書き連ねる人もいます。そう言う人を見る度に、深いため息が出ます。

実際に夫を米軍に殺された祖母が相手と語ると決めたこと。そう思い至るまで色々苦しんだのだと思います。我々が先の大戦を振り返ってとやかく言うのとは全く訳が違います。祖母が許すと言ったのに私が米国人を憎んでどうなりますか?

私は留学中、元米空軍重爆撃機B-17の乗組員で日本艦隊を爆撃した乗組員とも話したことがあります。彼も搭乗中に真後ろで親友が機銃に撃たれて戦死したにもかかわらず、やはり子供や孫のために決して戦争はしてはいけないと言っていました。実際にその時代に生きた者同士、そのように考えているのに子孫が愚かであってはいけない。私は子供のためにどうしてもよりよい未来が欲しい。そしてよりよい未来は日本だけではどうにもならない。

息子にもよく言います。宇宙開発のためにお金を湯水のように使えと。戦争に使うお金がなくなるほどガンガン使いなさいと言います。できるだけ多くの人とできるだけ遠くに行きなさい。月よりも火星よりもっともっと遠くへ。多分、戦争をするよりはややましな見返りがあるはずだと。先祖は有難い。今私たちがあるのは祖父たちのおかげだと思います。今平和に生きる私たちの足下には数百万人の貴い犠牲があります。その貴い犠牲たちは何と言っていますか?その声が聞こえていない連中が、無責任な事を言っているように思っています。

私は武芸者です。例えば家族や国を守るためにその技術を駆使するつもりで磨いています。しかしそれは工場の片隅にある消火器のように、できたら使われずに済ませたいものです。実際に非常事態に際して、国家が私の命を求めてきたら無条件、問答無用で差し出すつもりではいます。(泣き言ぐらいは言うかも知れませんけど)そう言う確信があります。それは私はそれに至るまでキッチリ選挙権を行使して、許す限りにおいて世界中の人々と交流を持ち、日本の輪を広げるよう努力してきたからです。完全に努力してやむなく戦いに突入してしまったら、後は教育勅語のように喜んで国家に奉仕するだけです。これは息子もよく理解してます。日頃よその国にケチばかり付け、どこぞの国が攻めてきたとき、嬉々として勇み立つのはエセ愛国者です。そんな奴が本物の日本人だったらたまったものではありません。間違いありません。命の重さがポータブルゲームのキャラ並みだと思っている人かも知れません。

父は保安隊から自衛隊に名称を変えた年に入隊しました。2年間ほど勤務しました。当時にしては珍しく大型の車種まで運転できたので重火器中隊に配属されました。子供の頃や大きくなってから何度も理由を聞きましたが、結局死ぬまでハッキリした理由が分かりませんでした。お金持ちのぼんぼんがあんなに厳しいところに入隊してどんなつもりだったのでしょうか。そもそも父の父はどうして許してくれたのでしょうか。父方の祖父は東條英機元総理と懇意にあったそうです。父方から我が家に伝わる唯一の家宝が大正時代の割に著名な書道家が書いた「教育勅語」です。祖父はどんな思いでこれを書くように依頼したのでしょうか。そんなところからも戦前の人、戦後生き抜いた人たちがどんなことを考えていたのか、私たちは汲み取って行かねばならないと思うのです。結婚して子を持つと、彼らがどんなことを考えていたのか、徐々に霞が取れたようにハッキリしてきます。私の場合は幸いにも広く世界の人たちと語れる機会があるので、より日本人の立ち位置が見えてきます。

8月15日に靖国神社に参拝する折は、散華した英霊達に頼み込むのではなく、真摯に祈ったり愛国の情を訴えるのではなく、一人ひとりが実際に平和のためにどんな行動して、いかに御霊を康んじさせる事ができるのか、各で考えてみてください。そしてその報告と決意の表れが、英霊達を安心に導くものだと思うのです。

平成二十五年葉月七日

不動庵 碧洲齋