不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

「大和の民」であること

本日は広島に原爆が落とされた日。

人類が最初に核兵器を使ってしまった日。

科学の暗黒面の蓋を開けてしまった日。

東西冷戦時代ほどの深刻さでないにしても、世界にはまだ、人類を何度も絶滅させるに十分な核兵器が温存されています。

逆に言えば、戦場が局地戦、不正規戦になる確率が増えたということであり、局地的にならお手軽に核兵器が使われてしまうとも言えます。

1/195。世界には195カ国がありますが、日本が他国と違う点は「日本だけが世界で唯一、核兵器を使われた国」というところ。1945年では当然、195という分母はもっと少なかったことは言うまでもありません。

新しいおもちゃやゲームがあったら使いたくなるのは人情というもの。それは兵器でも同じこと。あれば使いたくなります。そして「彼らだけの」良心が痛むので、使うなら欧州ではなくアジアで。彼らはアジア人ではないから。

そういう考え方は昔ほどでないにしても今でもあります。あってはいけない、あるべきではないという理想論や希望を述べても、それは確かに厳然としてあります。

今朝、息子と話し合いました。原爆を投下した爆撃機の機長はポール・ティペッツ大佐という人だが、彼は本当に悪い人か。息子は大佐に命令したアメリカの大統領がより悪いと答えました。私自身、ポール・ティペッツ大佐について色々調べましたが、個人的にはなかなか立派な軍人だと感じました。

私は言いました。そんな考え方ではいつまでたっても過去に囚われて抜け出せないでいる中国や韓国の人たちと同じになってしまう。悪いのはどこかの国の大統領じゃない、人類みんなが悪いと思わなければいけない。人類みんなが悪いからみんなで少しずつ良くしていかねばならないと、少なくとも日本人だけはそれが分かっていないといけない。

その考え方と日本人が「大和の民」と呼ばれていることは、無関係ではないと思う、息子は理解してくれました。

日本人だけが知っているこの惨事をどれだけ世界に広められるか、我ら大和の民に課せられた使命ではないかと、いつも思います。

毎年書いていますが、原爆死没者慰霊碑の文句について。

有名な文句です。

「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」

撰文・揮毫した方は雑賀忠義広島大学教授。本人も被爆者です。

毎年、この文面を読むと腹が立ちますが、かのインド人博士ラダ・ビノード・パール判事は「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」と言って憤ったと言われています。

個人的にも毎年これを思い出す度に腹が立つのですが、書いた本人が被爆者です。

三者がとやかく言う権利はないとも言えます。

一応、英語ではこのように訳されています。

「Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil」

"We"は誰か?もちろん、日本人ではない。米国人か?雑賀教授はきっと、人類みんなが、と思ったのかも知れません。俺は悪くない、悪いのは奴だ。これではいつまでたっても堂々巡りです。教授や当時の広島市民たちが地獄のような苦しみに喘いだ後に出した”We”はきっと、人類全体を指しているのではないかとも思います。人類みんなが、と言えばこれは確かに正解です。

安全という言葉は、自分以外がどうなっていても、自分だけが保全されている状態を指します。平和というのは認知されている周囲全てが保全されている状態を指すのだそうです。日本人が求めているものがいかに遠大な理想であるかを知るべきです。武力と経済力さえそこそこあれば、安全は手に入れられますが、平和はそうではありません。その違いを日本人はよくよく認識する必要があります。そして大いなる和の国である私たちはその名に恥じぬよう、それを諦めてもいけないと思っています。

広島に人類初の核兵器が用いられた日に、そう思うのでした。

平成二十五年葉月六日

広島原爆犠牲者に哀悼の念を添えて

不動庵 碧洲齋