不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

人間社会と自然の距離について

この文は昨日から書いて今朝方FBに英文でコメントしたものですが、日本語でも書いてみたくなりました。こちらは日本人向けに多少アレンジします。

先日、ミクトモさん親子に誘われて息子と共にクワガタ捕りに行った折、ふと思い付いたことです。日本人と欧米人の自然に対する姿勢が分かるのではないかと思います。

私が初めて米国に行ったとき、少なからぬショックを受けました。それは米国の一般的住宅の構造が日本のそれに比べて防備を固めた強力な要塞のようなものだったからです。中に住んでいる人間と、外界が硬質で分厚い障壁で完全に切り分けられているという感じです。これは欧州でも同じです。アジア圏はあまり旅したことがないのでよく分かりません。

言い換えると、これは人間社会と自然を分厚い境界線で線引きしていると言えます。多分、多くの日本人は欧米の一般的な住宅の構造に対して、多少なりとも閉塞感を感じるのではないかと思った次第。私もいつも感じます。ま、郷に入れば郷に従えと言いますから生活様式も食べ物も平気で受け入れますが。

日本では玄関のみならず、どの部屋にも大抵、人が出入りできるような大きな窓があります。一戸建てではない、アパートやマンションですら、そういう窓が多く取付けられています。また、普通は引き戸なので、締め切ることだけが常態であることを前提としない構造です。欧米の邸宅は窓は閉まっている状態が常態であるように設計されています。

日本人はあまり意識しませんが、家の中も自然界の一部と認識していることが多いように思います。仕切りはかりそめのもの。そういう潜在意識が働いているように思います。家は人類だけの要塞や城ではありません。日本人は本質的に自然と切り分けられるのが好きではなさそうです。これは多分、古代からの日本人の感覚のような気がします。

古来より、日本人は虫を飼うことが好きです。物語にもよく出てきますね。甲虫類や蛍、蝶や蝉、鈴虫などは代表的です。

子供から大人まで季節毎の虫を見つけては見たり捕まえたりして楽しみます。

日本では虫が発する音に対して”声(voice)”と言います。英語では”音(sound)”と言います。日本人はどのように自然を捉えているのでしょうか。多分、日本人は自然物を無機物的なものとしては捕らえておらず、全てが一つの生きたもの、命があるものと考え、無機物が発する”音”ではなく、生物が発する音は総じて”声”としたのではないでしょうか。日本人は自然を我々人間と繋がった有機的な対象として考えているように思います。

いつだったか、欧米で放送されている日本のアニメを見たことがあります。ちょっと驚いたのが、夏場の定番の音、「蝉の鳴声」が欧米版だと削除されていました。欧州では蝉の声というのはあまり夏の風物詩としては一般的でないのでしょう。ちなみに中国語でも虫の音は”声”だそうです。さすが中国だけあって、虫の種類によっても多少表現が違うとか。それだけに今の中国の地獄のような環境破壊には胸を痛めます。

当流で継承されているとされる忍術も、こういうものの考え方があったからこそ自然発生したのではないかと思った次第。自然は人間が征服すべき敵だと思ったり、木や石、土や水を人間とは相対的なモノだと思ったら、忍術など思い付かないことも多いのではないでしょうか。人間も自然の一部だと思うからこそ、そういう考え方が生まれてくるんですね。

と、そんなことを思いました。

平成二十五年葉月二日

不動庵 碧洲齋