不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

信州の旅で思った

信州への旅行中、車を走らせているとき、何気なく外を見ると名前は分かりませんがきれいな花が咲いていました。その時、なぜか何年か前に師が語った事をふと思い出しました。

ヒンディー語ネパール語で「ナマステー/namaste」という挨拶の言葉があります。

訳すと「おはよう/こんにちは/こんばんは/さようなら」どれにも使えるのだとか。

「ナマス」は仏教では音写されたものが「南無」で「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」とかで使われます。訳すと「帰依する」と一般では言われていますが、師はそれを「帰命」と訳していました。なお「テ」は「あなた」と訳されます。

あなたに帰依します、あなたに帰命します。あなたって誰だ?

目の前にいる誰かではなく、「それ」がたまたま目の前で形作られただけのもの、ただそれだけの存在に過ぎません。

「空」がその日その時その場所で、たまたまそのように「色」化しただけのもの。仏という名の海で風が起って波立ち、発現したそれだけのもの。

しかし、仏の表象である以上は、森羅万象は須く寺院に安置されている神々しい仏像と何ら遜色なく、皆尊い御業と呼んでもよいほどのものです。

善きことが尊く、悪しきことが憎むべき事ではありません。

全部くまなく尊いはずです。

自分の前で手の平と手の平を向かい合わせてみてください。

その間には何もない、と普通考えます。

しかし科学的にはその間にはギッシリと大気を構成する元素があり、それを分解すればその原子がたくさんひしめいています。

私たちの判断基準など、所詮そんなものです。

一方ではこちらが正しいと叫び、方やこちらが正しいと聲高に主張します。絶対善も絶対悪もないことは誰しも知っているのに、ぶつかり合うと、人はいつの間にか両手に白黒の塗料缶を手にして、自他を塗り分けるどころか、自らを白黒の塗料で汚しています。

世の中の全ての在り方、為す様はこのたまたま表象された仏が帰命の為の行いをしているからではないかと思いました。

森羅万象の混沌としている様は、仏でありながらそれに気付かない我々がせっせと帰命している様ではないかと思いました。

私たち(だけでなく生き物も無生物であっても)は命果てるまで、経済活動だとか、生命維持活動だとか、芸術活動、求道活動、色々あると思いますが、それらは全て、帰命の行為の一側面ではないかと思い至りました。

故に日々日常で起る、良いこと悪いこと楽しいこと腹立つこと、あらゆる事に分け隔てなく感謝することは、帰命という尊い行為を全うする大切なことだと思った次第。

日々の行いを可能な限りきっちりと隙なく完遂を心掛けることは、表象された諸仏に失礼がないようにするため。

何よりも自分という形に形作られた仏を、他に形作られた仏と隙間なく一つになる、もしかしたらそれが無という状態なのかもしれませんが、ともかくそのようにするための作業が禅の修行ではないかと思い立ちました。

・・・書いてみると全然違う気もするな(苦笑)・・・。

・・・ようまとまりません。

一在家如きが、旅の途中、思い付くまま、くだらない戯言を書き連ねたとお嗤いくだされば幸いです。

以下は旅の間に思いつきで綴ったものです。

信州の旅路の途にて路傍の微華に帰命を観る。

森羅万象の発現は須く帰命が為の業也。

帰命以観(帰命という視点で観る)

帰命因識(帰命という因縁で識る)

帰命活生(帰命を活かして生きる)

帰命楽老(帰命を楽しんで老いる)

帰命尊病(帰命を尊んで病になる)

帰命全死(帰命を全うして死ぬ)

機妙転じて帰命と成す

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平成二十五年文月十八日

不動庵 碧洲齋