不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

「死ね」連呼

担任いる教室で「死ね」連呼

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130712-00000047-mai-soci

世界的にも日本がとても安全であることはよく知られています。

ITのおかげで世界中津々浦々の情報がくまなく入ってきているため、日本では凶悪犯罪や殺人事件が多いように感じますが、実際にはその数自体は減ってきているそうです。

(犯罪の種類によってはもちろん、増えているのもありますが)

そして日本は世界で一番の長寿国です。

また、いわゆる「戦死者」は70年近く出ていないという、およそ信じがたい記録もあります。

昔は列強と呼ばれ、今は先進国と呼ばれている国では日本で大きく取り上げられることこそ希ですが、戦争がなくとも国連平和維持活動などでやはり戦死者は出ています。

自衛隊が世界屈指の軍事力を持っているとは言え、やはり在日米軍の威力も絶大であることは言うまでもありません。

医療技術も進歩し、昔なら死んでいた人も多く助かっています。

工業技術、科学技術が発達したために事故に巻き込まれることもかなり減りました。

モラルも(罰則も?)向上したおかげでしょうか、これも大きな事故を未然に防いでいることもあると思います。

私の年代ぐらいからでしょうか、よく分かりませんが、私たちはあまりに「人が死ぬ」シーンをリアルで見る機会を失しています。多少の誤解を恐れずに言えば、人が殺されるシーンを知らなすぎる。それはとてもいいことではあるにしても、味覚も甘いものと辛いものあっての味覚。平和だけという感覚ではどこかがおかしくなってしまうのは理解できます。

ゲームでは命は幾つもありますが、昨今の少年少女達(通勤途中のサラリーマンもです)を見ていると、命を含めてバーチャル世界と現実世界が被っている人が多いような気もします。息子などは「とびだせ どうぶつの森」のようなバーチャル世界系のゲームには冷ややかです。現実で得られることの多さを自覚できる人は多分、あの手のRPGには興味を示さないと思います。

この自殺した少年に対して「死ね」と言い放ったクラスメート達は多分、事の重大さを理解していなかったのだと思います。彼らは言葉の重さを信じていなかった。自分以外の人にも心があり、その心は大抵は傷つきやすいものだということも、その傷つくプロセスも全く理解しなかったのだと思います。

私の時代にもイジメはありました。私も転校した小学校に在籍してから、高校生になるまではほとんどいじめられていました。それはまあ酷いものでした。ただ、どこか醒めていた部分もあったのでしょう。主にいじめる人たちに追従していたクラスメートの表情は今でも印象的です。彼らは皆、イジメが自分にやってこないために、必死になっていたような、そんな様相でした。だから恥も外聞もプライドもありません。もちろん追従者の多くは良心にも苛まれていました。私はそれを知っています。武芸をやっていてよかったと思うのは、昔は強大な相手だと思ったのが、いつの間にかしおれたナメクジみたいだったと思えること。怒りに燃えて殴り倒そうと思っていたのに、逆にヘナヘナと戦意喪失するが如くです。今は立派な大人になっていると信じたいところです。

一人二人では大したことなくとも、10人から「死ね」と言われたら子供心にはやはり堪えます。この辺りが理解できるか否か、いじめられた経験がある人とない人の差でしょうか。

私の周囲にもいますが、人は基本残忍なところがあります。残忍というのは相手をなるべく多く凌ぎ、優位に立ち、我に向かう者なし、という状態こそが心の平安であると信じている人間です。相手を徹底的に容赦なく撃滅して、それに歓喜するような手合いはどこにも必ずいるものです。敵と味方というシンプルなものの考え方の方が難しい事を考えずに遥かに楽です。

輪をかけて死者を見る機会が少なく、ITのようなお節介なくらい便利なものが発達すると、人の性というものはあまり健全に成長しないことが多々あるようにも思います。特に生き物の生死に関しては言葉で分からなければペットでも飼ってみれば分かること。ペットまでバーチャルではあまりにも寒すぎますね。

それにしてもこの教師、もし本当にその場にいたのなら、言葉の持つ重さに対してあまりにも無知としか言いようがありません。教員として言葉をおろそかにしすぎです。もしかしたらコミュニケーションをおろそかにしたのでしょうか。分かりません。ただその教員には少年が死ぬほどに傷ついたことが分からなかったのは事実です。

少年の冥福を祈りたいと思います。

平成二十五年文月十二日

不動庵 碧洲齋