「一つの花」という話しをご存じでしょうか。
私が小学校4年生の時に国語の教科書に載っていたお話です。
作者は今西祐行氏という方のようです。
驚くべき事に、ここ数日、息子の音読の宿題でもこの話を聞かされています。
つまり約35年も載せられ続けているロングセラーということになっています。
話しをかいつまんでみると、お父さんとお母さん、言葉を覚えたての女の子がいました。ある日戦争になってお父さんが出征します。出征するお父さんの為に厳しい配給の元でやっとつくったおにぎりも、女の子があまりにせがむので、駅に着くまで全部食べてしまい、泣き出してしまう女の子におとうさんはコスモスの花を手渡しました。その10年後、お母さんと女の子はぼろい家で幸せに暮らしていましたが、女の子はお父さんの記憶もほとんどなく・・・。というような非常に後味が悪いというか、なんというか、戦争がいけないことなのか、母子家庭でも幸せにやっていけるのだという先進的な話しなのか、ハッキリしない物語です。
子供の時に読んだ印象と今ではかなり違いますが、一つ同じなのは私の母を思い浮かべたこと。母の父、つまり私の祖父も母が4歳ぐらいの時に出征して戦死してしまいました。今は父としての視点で見られます。
私はふと息子に尋ねました。
「お父さんは・・・戦争は嫌いだったのかな?」
「戦争が好きな人はいないよ。」
「なんでお父さんは戦争に行ったんだろう。」
「国とか家族を守るため。」
何でそんな当たり前の事を聞くのかというような顔をしました。
「死ぬかも知れないから悲しかったのかな?」
「そんなことないよ。大事なものを守れるから嬉しかったと思うよ。悲しいことより嬉しいことの方が大きかったんだと思う。」
「女の子は・・・お父さんを覚えているのかな。」
息子は少し考えてから「お母さんも、女の子も幸せそうに笑っているじゃない。お父さんも喜んでいると思うよ。」と答えました。
「・・・」
「だいたいさぁ・・・パパだってきっと同じ事をすると思うんだけど。」
脱帽でした。
正直、学校でこの教材に対してどんな教育をしたのかあまり興味がありません。そして期待もしてません。私は息子が答えたこの内容に満足しています。
その数日前に息子と語りました。
人は必ず死ぬ。いつどこで死ぬかは決められないが、何のために死ぬかだけは決めることができる。そしてそれを決められた人だけが、死んでも死なない人たちだと話したばかりでした。生きても死んでもその想いが他の誰かに伝わっていれば、当人の生死は一つの在り方として、あまり重要ではないと言ったばかりでした。
今のところ、息子には年齢以上に深い智慧がある答えを持っているようです。いつも言っていますが、周囲の方々、仏の慈悲でそれが与えられているのだと思っています。
息子が私の行動規範を以て道徳規範とするなら、私は今以上に自らを戒めねばならないと思った次第です。
平成二十五年文月十日
不動庵 碧洲齋