不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

空に在って仏に逢う

6/8土曜日、私はロシア・シェレメチェボ空港から日本への帰路に就きました。

往路と違って復路はやや空いていて、運がいいことに私の隣は空いてました。

エコノミークラスにあっては隣が空いていることぐらい嬉しいことはありません。

が・・・

私の近くに赤ん坊を連れた家族が二組も搭乗していました。

2人の赤ん坊は慌ただしい雰囲気に触発されてギャーギャー泣いていました。

私の近くで泣いていたので、それはもう結構な音量です(笑)。

iPod nanoで音楽を聴いてもハッキリと泣き声が聞こえる凄いレベルでした。

ま、私は大して気にもなりませんでしたが。

無視するでもなく、執着するでもなく。

それはそれ、そのまま聞いていればよいのです。

親であればそんなのは経験済のレベルですし。

仏泣く

傍に佇む

蓮の花

雨が降ろうと

風が吹こうと

そもそもその家族も小さな赤ん坊を連れて日本に行かねばならない理由があったのでしょう。観光以上の目的である可能性が大きいですが。ともあれ好きこのんで小さな赤子を連れて飛行機に乗る親などいないはずです。

私の周囲、大方の乗客も理解していたようでした。

可哀想に、赤ん坊の泣き声に絡め取られてしまった若者がいました。

彼女なのか奥さんなのか、窓際2人だけの席なのに、赤ん坊が泣き出す度に彼は怒りに震えながら身を乗り出して席を振り返り睨み付けていました。

本来自分であり尽せばいいのに、若者は赤ん坊が泣く度に余所に心を奪われてしまっています。余所が動く度に怒りに心を奪われてしまっています。

赤ん坊のお母さんも同じ。

周囲に気を揉み、気をすり減らされすぎています。

赤ん坊に心を配りすぎです。

ただ自分であり尽せばいいだけなのに。

飛行機の中では赤ん坊だけが仏の世界にいるようでした。

私は何度かその赤ん坊と目が合いました。

平和そのものです。

泣く仏

怒る仏の

御姿は

あるがままにて

悟り満ちたる

若者も怒りのど真ん中にいれば安心を得たのかも知れません。

母親も赤子に手を焼き、心配潰したところに安心があるのかも知れません。

どちらにしてもあちらのためにこちら、こちらのためにあちらなどと考えているとおかしくなるだけです。

若者も着陸態勢に入ってくると、異国に心躍らせ、長旅に疲れてきていたのか、赤ん坊が泣いていてもほとんど気にならないようでした。つまり、最初の彼の怒りも所詮その程度だったのです。もっとも後何年かして人の親になれば自分の浅はかさに気付くかも知れません。

そういえば去年だったか、漫画家だったか、著名な方が赤ん坊の泣き声でブチギレて酷いことを言ったというような事件がありましたね。その後は反省したようですけど。もちろんそれはそれで気持ちは分かりますが、あなたは赤ん坊の時は静かだったのですかと言いたい(笑)。

着陸少し前、その赤ん坊のお父さんが入国者票を書くために私にペンを貸して欲しいと言ってきました。ちょうど私が何か書いているのを見ていたのでしょう。私は快く貸してあげました。そして奥さんに抱かれていた目が大きい赤ちゃんに「可愛いですね、大変だったでしょう」と言ってあげると、若いお父さんはほっとしたようでした。

私憤による怒りたるや、端から見て恥ずかしいレベル。本当に怒れる時は、こういうレベルではありたくないと思ったりしました。

同時に「空」に在りながら「空」になく、仏に近い赤子に怒りをぶつけている若者が、何とも滑稽に見えたのでした。

平成二十五年水無月十日

不動庵 碧洲齋