不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

杵でこれを麦と一緒に突く

私の知り合いで自我から離れられない人がいます。

自称、周囲からは可哀想なくらいおとなしくて意見が言えない人だと思われているそうですが、そもそも本当だったら自称しないでしょう(苦笑)。

私は極力沈黙することでその方に罪を重ねさせないようにしているのですが、相手は口を開く度に不平、不満、愚痴、吝、嫌味、誹り、否定文、否定形、そんなものばかり使っています。

言った相手に全く依存していなければそれでもよいのかも知れませんが、むろんそうでもなし。

上記の方、以前日本の伝統芸能を始めたと宣言した折、訪れる度に玄関で脱いだ靴が乱雑になっていたのを知っていました。私はそれから特に訪れた際は自分の靴をキチッと整えるようにしました。1年を過ぎた頃から何となく気付き始め、2年目ぐらいからはちゃんと揃えるようになりました。この間、靴に関しては何一つ言ってません。伝統芸能は知識や技術ではなく、そういった身近な所作から始まるものだと思った次第。2年もかかりましたが、全く言葉を用いずに感化させられたのはある意味初めての試みでした。実行してみてなかなか興味深いものがありました。感化させることは全く不可能ではないのだなと言う可能性の示唆。希望とまでは言いませんが。

とはいえ、私は人に感化させられるほどに人徳はあると思っていないので、私は基本、分かってくれる人にだけにはある程度前向きに語り合うことはあります。分からない人に言葉は有害です。理解しようとする対象なら犬でもネコでも理解するのでしょうが、分からぬ者は神でも理解しません。そういう場合は行動でのみ意志を示し、沈黙を保つよう心掛けています。道場ではそうしています。そこで初めて何か気付いた人だけにはできるだけ接するようにすれば効率的でもあり、トラブルも少ないものです。

聖書にこんな言葉があります。

「愚か者を臼に入れ、杵でこれを麦と一緒に突いても、その愚かさは彼から離れない。 箴言 27-22」

どうして臼とか麦が一緒に出てくるんでしょう?ずっと考えていました。分かりますか?

私なりの見解です。麦→粉→パンという変化があります。臼(と杵)は試練や指導とかでしょうか。変化せず、人の役にも立たない、もしかしたら聖書は愚か者の定義はそのようにしているのかも知れません。

愚か者にも色々あります。知恵に賢くないとか、道理に疎いとか、頑固だとか。ただ聖書に出てくる愚か者の多くはエゴ丸出しの人間であることが多いようです。禅でもエゴほど禅定を妨げる要素はないと言いますから、やはりこれは世界的に見て有害なのは間違いなさそうです。

エゴから離れられない、というのはやはり人として生まれついた中では最大の不幸のように思います。先の知人がマイナスの言葉を発するときの能面のような表情を見ていると、こちらにまで不幸のオーラがのしかかってきそうな気がします。さりとて衝動防御的な反撃では意味がありません。そういうときこそ無とか空の心構えでいるのがよいのでしょうが、それがなかなか難しいと思う次第です。

平成二十五年水無月二十日

不動庵 碧洲齋