不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

物差しは・・・

秤とは

打ち棄ててこそ

価値があれ

狂い回さば

人の傷つく

私たちは日常、ある程度の共通価値観を持たねば社会を生きていくことができません。

が、例えば日本人の悪いところで、何でもかんでも平均を知りたがることは実はあまり大きな意味があるとも思えません。世界でも富や学力が平均化されているという意味では日本以上に平均化されている国はないのですから。普通、他国は国民はでこぼこなのですが、そのような在り方が一般的なのです。

禅を始めてから自分の価値観というものについてよく考えます。

自分の価値観というのが正しいのかどうかというよりも、その価値観で多くの人が利益を受けたり幸福になるのかどうかという視点で見るようにします。正邪などは所詮かなりいい加減なものであると思っています。

それともう一つ、自分の価値観を振りかざして他人を傷つけることがあれば、それもまた正義とは反対側にあるものではないかと思います。自分の価値観に狂気なほどに固執するとか。主観の強い人ほどそういう傾向があります。エラそうに言っている私もかつてはそうでした。今振り返ると普通にぞっとします。よくもまあ周囲が見捨てなかったものだと、冷や汗ものです。

主観の強い時期や強さの度合いは人それぞれですが、やはり思春期は主観が芽生え、ある程度強くなり、社会でほどよく整えられるものだと思いますが、人によってはもっと遅い時期に研磨されたり、いつまで経ってもよい子ちゃんのままだったりするかも知れません。

私の場合で恐縮ですが、少々武芸をかじっていて、禅にすがりつき、やむなく国際社会に片足を突っ込んでいるような状態ですが、私の友人たちはともすると過大評価して武芸の達人だの、禅定力が高いだの、国際教養人などおっしゃってくれていますが(特に外国人の友人)、もちろんそんなことはありません。それらに努力はしているところです、というのが正解に近いと思います。褒められて悪い気はしないのが普通ですが、周囲に本物の武芸者や禅僧、国際社会人が数多くいるので、私の場合は褒められると逆に気後れします。いい気になっていた時期もありましたが、「識る」と怖くなります。これが普通ではないかと思います。私の場合、それを乗り越えられる勇気がいささか足りないのかも知れません。

強さの程度は狂気なほどに持っていたらやはり引きます。私が思っている程度ですが、白を黒と言い張れる主観の強い人とはやはり距離を置きたいと思います。そういう人は概して自分の秤を乱暴に振り回して他人を害することに生き甲斐を持っている人が多いようです。残忍さを愉しんでいるというか。衝動的感情爆発の中で生きている、例えば朝鮮民族によく見られますが、日本人にもそういうのはいます。白を明るいグレー程度に思う人となら、多少の違いを無視できますし、やや暗いグレーでも何とかなるのかも知れませんが、黒と言われたら元も子もなく、とりつく島もありません。私の場合はそういう場合は害が及ばない限りは沈黙を以てすることに決めています。

主観の強さが狂気的というのは例えばヒトラーなどはそうだったかも知れません。自分でそれに気付かない、直せない、そういう人はかなり病的だと思った方がよく、それは遠くない先に何かしら弊害を生む恐れがあります。先日もそんな人を見かけました。自分では正常なつもりなのでしょうが、やはり目が狂気というか常でない光を帯びています。

自分の物差しは正しくない、自分の物差しは万能ではないと思えば、くだらぬエゴはなくなります。悟った人などはそういう物差しを放擲できる人なのだと思います。ましてや物差しを振り回せば自分や他人をも傷つけてしまうことを識れば、愚かなことは止めたくなると言うもの。

と、昨日知人と交わした会話の中で思い、我が身を更に慎ませるのでした。

平成二十五年水無月十九日

不動庵 碧洲齋