不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

2013年寄居北条祭り

5/12は埼玉県寄居町で寄居北条祭りが行われました。この寄居北条祭り、何と今年で第52回を数える、時代祭としてはなかなか古い祭りです。しかもイベント業者を使わずに、寄居町内だけで行われます。寄居町には鉢形城という城趾が残されており、非常によく保存されています。日本100名城、国の史跡に指定されています。祭りのメイン会場は鉢形城のある荒川沿いの対岸、河川敷にて行われました。もちろん今回初参加です。 朝は6時に友人を市内で拾い、マックで朝食を取ってから外環、関越自動車道で花園インターまで。降りてからは分かりやすく、寄居町総合体育館に行きました。到着は7時20分前。全然早かったですね。しかしさすが寄居町、体育館は既に開けられており、参加者用の装備も並べられていました。誰も来ないので・・・と思っていたら甲冑仲間の夫婦が・・・。そのうち別の甲冑仲間の夫婦も・・・。よく考えたら夫婦参加って多いですね。もしくはこういう祭りに積極的理解がある奥方が非常に多い。とてもうらやましく思います。 今回は着付けを手伝うと言うことで、自分たちの装備がすぐに着られるように並べておき、着付けした後にすぐに着られるようにしておいたのですが、なかなか来ない。先に女性武者6人の着付けを手伝いをしました。女性の着付けの手伝いができることは光栄ですな(笑)。皆さんよく似合っていました。
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時間が過ぎても一般武者が来ない・・・。で、やっとやってきたのは何と外国人。国籍を聞くとたまげたことにロシア人が3人もいました。まだ挨拶程度ですけどロシア語を使ってみる(笑)。その他にはクロアチア人、ドイツ人、スェーデン人、アメリカ人など。ま、当流でもおなじみの国ですね。身体が大きいので足袋がない(笑)こういうのは個人で買わせた方が良かったんじゃないかな。参加費用はタダなのだから、地下足袋ぐらいは自分にフィットした物を買ってもらった方が良いでしょう。着付けは大変でした。滝之城で参斗之介殿たちが必死にやっていたことが分かりました。自前甲冑の人だと無意識にやっていることでも、彼らにはいちいち言わないと分かりません(しかもこの場合英語で)。準備がよかったのはテキサス人女性だけでした。 直前に着替えの会場の変更があったため、混乱気味のようでした。祭り慣れしている町でもそういうことはあるものかと思った次第。 結構汗だくになったところで自分たちの甲冑装着。 ・・・しかし、今回、飛間殿は鉢形城城主北条氏邦役でしたが、陣羽織を持ってこなかったらしく、やむなく私の城の陣羽織を貸しました。まあ、たまには陣羽織なしでもいいでしょう。今回は合戦もあることだし。着付けが終わった段階で早めの昼食。 あまり腹は減ってませんでしたが、後で食べられなくなるのがイヤだったので完食しました。巻き寿司といなり寿司でした。会場までは徒歩。暑い上に距離もある。鉄道路線が横たわっているので、駅の連絡通路を通らねばならぬ。陣羽織貸したのがちょっと堪えてきたかな~と少し後悔。やはり陣羽織は2着持っているべきであった。ちょっとよかったことは、同じ甲冑を着ていたこともあって、他人から自分はどのように見えたかと言うこと。これはかなり参考になりました。 会場である河川敷に降りる手前で待機。若い女性が一人、日陰部分でしゃがんで弁当を食べていました。若い女性が便所座りするなよな。あ、分かってます、この方は多分中国人ですね。一度着替え会場を間違えて体育館にやってきましたから。台湾人とかはそういうはしたない格好はしないような気がします。言ってあげようかどうか悩んでいる内に入場式が始まりました。T郷先生もいらっしゃったのですが、ツーショットも撮れず・・・。
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会場すごい!荒川静香さんも美しいですが、ここの荒川河川敷もとても美しい景観でした。天気がよかったせいもあり、荒川の水面が本当にクリアでした。周囲の景色も抜群。会場設定もさすがと感心。イベント業者以上の出来映えに感動しました。これはひとえに三鱗会の努力によるものではないでしょうか。甲冑仲間の何人かはメイン会場準備に奔走していました。有難いことです。 河川敷は砂なので、歩くのは一苦労でした。寄居町町長の演説凄かった(笑)。北条愛に溢れていました。あ、鉢形城三鱗会の会長は代々町長が勤めることになっております。だから三鱗会の活動というのはある意味、単なるイベント、単なる好き者たちの活動とは一線を画しています。寄居町長さんになるってことは、北条愛にも溢れていなければならないんですね。ある意味これも画期的で感動しました。他に八王子市長、小田原市副市長なども来ていました。出陣式はごく普通ですが、大砲や花火をガンガン使っていました。更に太鼓。景色も相俟って、今までの中では1.2番の出陣式だったように思います。イベント会社運営の出陣式とは訳が違いました。 パレードは2キロ未満ですが、短くはなかった。パレードが始まる前に既に500ミリのペットボトルが空になった。今回初めて時代祭風水筒を作り、持って来たのですが、大正解だった。なかったらきつかっただろうな。ところどころで紙コップに水を入れて待ってくれているボランティアさんがいてくれたのは大助かりでした。馬と合流する辺りで新田さんと桶之介さんに会う。新田さんは今回甲冑を着ていませんでしたが私はとても残念に思いました。これは後で。桶之介さんはいつものように可愛らしい奥方とご一緒。久々に褌甲冑見たな。 背中が熱かった。陣羽織がないとこんなに熱いんだね。熱いと言うよりは背中にホッカイロが貼られた感じ。パレードは甲冑武者の他、色々な踊りなどもありました。会場に戻ると、今度は西端に誘導されました。よし合戦か。自前の槍を置き、合戦用のソフト槍を・・・と思っていたところ「ソフト槍ない人は参加できません」ええっ?どういうこと?呆然としている内に豊臣軍と北条軍が別れて対陣。色々な憶測が出ました。いつもよりも数が半分以下になっていて、どうやら特定の団体関係者の方だけが出ているようだ、とか。それまではよく怪我があったとのこと。同じ団体の中であればそういうことも少ないだろうと言うことか。その他に大勢の子供。今回はNHKも協賛しているのか、ドーモ君も武装して参加しました。これがなかなかかわいい。来ていた人はかなり熱かったと思います。ご苦労様でした。それにしても何で出られないんだよ~。 この合戦がなかなか長かった。それだけに私もやりたかった!簡単に言うと石和の合戦をスケールダウンしたものですが、景色の良さと花火や大砲の使用、和太鼓の伴奏があり、演出効果は非常に素晴らしかった。が、砂上の戦場を何度も何度も突撃を繰り返すのを見て、あれはかなり過酷と思った次第。しかしあれなら交代要員を使えたらみんな出られたのに。見ているのに飽きたので、同じ隊の美女2人を誘い、少し離れた河川敷で写真撮影会。これが結構おもしろかった。陣羽織を着ていない碧洲齋も悪くないな。また、数珠が朱色オンリーになったのですが、これもまたよし。朱色の数珠を強化して、こちらは壊れないようにしよう。あと凄かったのはラジコンヘリコプターにカメラを搭載して、空から撮影する人を見かけました。さっきYoutubeでもあったのですが、何故か途中までしか見られなかった。
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で、そのうちに和睦式が始まり、終了・・・。何かあっけなかったな。着替え会場に戻る前に隊で勝ちどきを上げました。ホントにこれが最後。皆、三々五々で退散しました。着替え会場に着いたときは疲れましたが、いい感じに疲れました。ともあれさっさと着替えましたが、外国人部隊がまだ来ない。あ、そういえばこの祭り、外国人参加者が非常に多かった。多分比率的には他の祭りよりもずっと多いようです。そういう意味で国際的なのは大好きです。しばらくみんなと語っていると外国人たちも戻ってきたので名刺を渡して我々も帰路に就きました。帰路は今回撮影に回ってくれた参斗之介殿と南北戦争関係の友人2人。土曜日にエンジンクリーニングをしたので吹き上がりが非常によい。エアコン付けて4人乗っていたのにまだ馬力に余裕があるのには驚きました。 もちろんお約束の関越渋滞。とはいえ割に動いていました。18時ちょっと過ぎに西新井近くのメキシコ料理店へ。ふとした思いつきです。久しぶりのエルソールでしたが、いや~うまかった。店主のメキシコ人のオバサンも元気だった。いいねぇ。皆さんも満足してくれたところで解散となり、同じ草加市内に住んでいる1人だけを乗せて帰路に就きました。
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祭りのレポートはここまで・・・ 嫌なことから書きます。 大組織、しかも啓発し楽しむためのものであるなら、「大海は水を拒まず、泰山は土を拒まず」ぐらいの大度、器量を持って然りだというのが私の信念です。無論、人の組織である以上は相容れないものもあります。個人的には人の倫理に反するような人は是としません。犯罪者はともかくとして、お金や女性にいい加減な輩は受け入れてはだめです。全く規律を守らない人もダメですが、ある程度守れているなら、それを教化する力が大組織備わっていて然り。戸口門前に番人を立てるよりも、惹き付ける何かを戸口に置くべきです。 仮想敵を標榜していては来る人も来ません。巨城も石垣の一礫から崩れることがあります。たった一言で万人を平伏させたり、万人の信を失ったりします。大組織にある者はやはり狭量であってはならないと思います。私はよほどのことがない限り(よほどだった人もいますが)、同じ甲冑武者を志す人は皆、仲間だと思っています。狭い業界です。仲良くして都合悪いことなど何もありません。 私は大和民族の名に恥じることはしたくない、と大見得を切りたい。大きな和を尊ぶという意味で、私は恥じることはないように日夜微力を尽し努力しています。私は武芸者として広く海外の同門にも接している以上、大和民族モドキでは絶対にダメなのです。また、武芸者としてエセ平和主義者でも絶対に許されないのです。特に重歳してやむを得ず人に指南せねばならぬ立場にある以上、和を尊ばねば日本武道の何たるかを語れません。私は至極真面目です。 世の中には二種類の人間がいると思うようにしています。敵と味方、ではありません。それは敵だけしかいない人、つまり敵から見れば自分も敵ということです。もう一つは味方しかいない人、まあ、味方のレベルはそれこそピンキリですけどね。この見方は大きく違うと思っています。「自分が正しい」「正義は我にあり」そういう人間は信じられないほど他人に残忍冷酷になれるということを私は歴史を学んで知りました。「より正しくあろうとすること」この見方と行為は我が身を慎ませ、言葉を慎ませ、自分に厳しく、他人に優しく、融和を愛するようになると私は確信しています。他人がどうの、ではなく自分だけの問題です。私の言葉は理想に過ぎる嫌いがありますが、ここ1年、特に時代祭に関してはこのように思っています。 善いこと 寄居町という名はずっと不思議に思っていました。私はよく群馬県の山奥まで行くことがあるので、寄居はよく通ります。なのでずっと気になっていました。以下は寄居町のHPからです。 「江戸時代に作られた『新編武蔵風土記稿』によると、「鉢形城落城の後、甲州の侍、小田原の浪士などより集まりて居住せし故の名なり」と記されています。 その一方で、中世の城郭の周囲に築かれた施設・集落などのことを「ネゴヤ(根古屋)」「ヨリイ(寄居)」等と呼んだとの研究成果もあり、当町に鉢形城・花園城をはじめとした多くの中世城郭が存在することを踏まえ、その起源は戦国時代までさかのぼるのではないかと考えられています。 このように、その起源こそ様々ですが、いずれにせよ、「寄居」は、「人が寄る町」「人が集う町」を象徴した歴史的な名前であるということができるでしょう。」 西方の超巨大組織に武蔵の国は完膚なまでに粉砕されてしまった後、何か思うところあってまた、寄居の地に人が集まり始めました。景色がよかったからかも知れません。農地に適していたのかも知れません。人は人を寄せ集めます。人は皆、人の温もりを欲するものです。鉢形城開城後、寄り集まりが「寄居」になり、そして今に続いています。今や世界中からも寄り居ます。これはとても素晴らしいことだと思います。住民にある意味誇りと自覚がないとできません。その昔、ボストンに行ったとき、住民の多くにプライドというか誇りのようなものを感じました。町長以下、比類なき祭りを熱い気持ちを持って毎年開催しているという事実に私は感動しました。なので来年以後も出ようと思っています。 こういう機会を与えてくれた三鱗会の皆様には感謝の言葉もありません。実際に会員は事前の準備に奔走されていたと想像します。当日もMauさん、壬生さんも裏方の仕事を一生懸命していたのを見ました。こういう組織の末席に加えて頂き光栄に思っています。これからも末永く在籍させて頂ければと思っています。私も何か当流の演武を見せることもあるかと思います。 凄く長くなってしまいましたが、偽りなき今の感想です。 最後に聖徳太子が作ったとされている、十七条の憲法の第一条を紹介します。 一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。 一に曰わく、和を以って貴しとなし、忤うこと無きを宗とせよ。人みな党あり、また達れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父に順わず、また隣里に違う。しかれども、上和ぎ下睦びて、事を論うに諧うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。 一に言う。和を何よりも大切なものとし、諍いを起こさぬ事を根本としなさい。人は集団を作りたがり、悟りきった人格者は少ない。故に、君主や父親の言うことに従わなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就するものだ。 平成二十五年皐月十三日 不動庵 碧洲齋