不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

変わる/変わらぬ

昨夜、10数年の付き合いのある知人と話す機会がありました。

「君は10年前から全然変わってないな」

何かのついでにそんなケチを付けられてしまいました。

10年前と言えば息子は生まれていませんし、父は他界しておらず、今のように本格的な禅を始めていませんでしたし、時代祭関係の友人達とも知己を得てもいません。武道関係でも10年前に比べたら深い繋がりを持つ武友の数も結構違います。仕事でも当時はコールセンター業務をしていて貿易のことなど全く知りませんでした。性格的にも自覚できるほどに変化もあったと、私は思っていますし、それは友人からも言われますが、知人はどうしても変化があったと思いたくないのか思えないのか。人は気に入ったものしか目に入らない、よく言われますが、それを本人から言われたときは思わず苦笑してしまいました。

万物は須く流転するものだと思っています。そもそも10年も変化がなかったらそれはもう宇宙人というレベルでしょうと内心苦笑せざるを得なかったのは事実です。そう見えているのは大抵、主体者の先入観や固定観念、ガチガチになった心が為です。

変わっていないと信じる、変わったと信じる。私はそういう言葉遊びから離れます。現実に日々は動いているので話すまでもありません。人間の体ですら、1年に何度も細胞が入れ替わっています。その間隙を縫って生き長らえている微弱な脳波が維持している情報が「変わらず」だったらこれはもう吉本興業レベルの漫才です。

五感そのものは嘘をつきません。嘘をつくのは心です。例えば武芸ではその心の嘘をどれだけ削り取れるかで、勝機を得ます。戦いではエゴ如きは言うまでもなく、思念、想念、経験、固定観念、先入観、そういうものを一切排除した、限りなく純粋な五感の感覚に強い信念を加えられたら勝機が望めます。よく宗家が「どんなにたくさん技を知っていても関係ない」と口にしますが、エゴまみれ、固定観念や先入観に囚われていたら、どんなに身体を鍛えていても、技がうまくても負けます。私はそのように理解しています。

変化を認めない、変化を否定する、これは単なる言葉遊びです。もちろん、変化する、動いている、これすら正直言葉尻を捕まえているようにも思います。その知人は変化を実際五感から受けながら頭でそれを否定するという、実に奇妙な状態にいるわけですが、それすら認めない頑迷さにある場合は、正直実害がない限りは放置するのが一番です。

自分は正しく、相手は間違っている。知人の精神状態がそのような在り方である限りは、特撮ヒーロー戦隊モノのヒーロー対悪役の構図から抜け出せません。人はおしなべて「より正しくあろう」と心掛けている以上のものではないと思います。人間は自分に正義があると思うと、恐ろしく残忍冷酷になります。故に正直言うと、私は世に考えられている正義のイメージは日本刀のように冷たい鉄を思い浮かべます。全然関係ないですが、「ルパン三世」に出てくる五右衛門の愛刀である斬鉄剣は暖かいそうです。私が考えている正義があるとすれば、さしずめそんな感じだと思います。

いつもはそのように言葉の水掛け論にしかならない場合は悉く沈黙を保つのですが、昨日はやむを得ず空しいと思いながらも反論せざるを得ない状況に空しさだけが漂いました。事実に即さない言葉はなるべく慎みたいところです。

平成二十五年卯月二十五日

不動庵 碧洲齋