不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

暖かさと冷たさ

知人の口癖です。

知人がよくその子供に「あなただけはそうなってほしくない」とか「あなただけはああなってほしくない」と言います。

誰々には暖かいが、誰々には冷たい(厳しいのとは違う)、というのがあります。

誰々には親切で、誰々には不親切。

誰々には礼儀正しく、誰々には無礼千万。

誰々には誠心誠意、誰々には嘘八百

そういう相対的な場合の良い意味は決して良くないと私は思います。

人間ですからその人それぞれの器の大きさがあり、自助努力以外でそれを広げることは難しいでしょう。

しかし、それを大きくしようとする努力を放棄した人は、ある意味人間としての魅力が欠けるような気がします。

私も人間ですからハッキリと好感が持てない人は公私ともにいます。

他人に肉体的精神的に害意を持つ人、迷惑をかける人、わがままな人はとても嫌いです。そういう人を好きになれる人もいるのでしょうけど、私は好きになれません。

しかし、だからといってそういう人たちに「目には目を」という方法はやはり良くないと思うのです。

偽善者か性善説バカかも知れませんが、私はなるべくどんな人にも誠意を尽すように努力します。

もちろん瞞されない程度に節度を持ち、理不尽不条理な言いがかりには沈黙を保ち、ご機嫌をとるための言葉を慎み、相手に一理あれば素直に受け入れ、忍耐力を持つ。嫌いなものは仕方ありません。嫌いなままでいいと思いますが、逆襲したり攻撃したりして「相手(敵対)」を作ることで自己を相対化させ、表象させてはいけないのだと思います。

原始の時代から、敵対要素を制圧することで自我を認識して喜びを覚えるのは生き物の性ではありますが、それを選ばない自由を与えられたのもまた人だけであれば、その道を採るのが人の道ではないかと思うのです。

ここで心が折れるとか、心がすり減るとか、ストレスがたまるという現象があるとされています。

「心(こころ)」の語源は、何かがころころと転がる様から来たという説があります。その「何か」があるという前提です。何もなければ何もありません。

近年では幾つもの身分証明書を所持し、パスワードやIDネームを幾つも持って、毎日幾つもの認証を要求されます。身だしなみを整えるために長い時間、鏡に向かう人も多いでしょう。100年前に比べて自分が自分であるということを証明せねばならなくなってきました。自分であること、自分がいることを自覚させられることが何と多いことか。そもそも自分の目で自分を直接見ることができないのに、そんなことを日に何度もさせられてはたまったものではありません。それではおかしくなって当然だとも思います。

それ故に現代の心をむしばむ病が増えているのではないかと思うのです。

「それ」があると思うから、あると信じているから起る。

私の場合ですが、禅を学んでから無心でいられることが非常に増え、エゴが消失した分だけ、確実にぶつかることが激減しました。本来悩まねばならないことの少なさに驚き、世の中のありがたさに気付いた次第です。

善悪、好嫌、良し悪しという相対的なものではなく、そのものであることが比較的容易になってきた感ありです。いまだ完璧とは言い難いですが、それでもその真理に気付いてきた甲斐あって、本然というか本質的なものを見失わずにいられることが増え、心の安寧を得ることが10年前に比べて多くなりました。

そう思うと器というものの境界線も、「ある」と思い込んでいるだけなのかも知れません。

故に自分もあると思うからあり、ないと思えばないものだと思うようになりました。

自分は他人だけを見ることができる。世界で自分だけ見るこことができない。

世界中の人々も全く同じ事。

自分が自分がとガリガリのエゴをむき出したところで費用対効果の程はと思えば、言うほどではないのかなとも思います。

ふと、思い付いたままを綴りました。

平成二十五年卯月九日

不動庵 碧洲齋