不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

息子が生まれてから少し後

仏の智慧というのはエラいお坊さんよりも、小さな子供、動物に備わっているものだと感じます。

日々息子が賢くなる度に、感謝に堪えません。

まあ、私と違ってテストの点数はうらやましいほど高いのですが、そんなことはどうでもよいこと。

何をどう考えているのか、そこが肝心です。

こういうヤツ(私)如きに、超スバラシ過ぎる師匠、友人一同がいるがために、息子がよりよき道を歩んでいると感謝の毎日です。

前回は息子が生まれるまで、徒然思い付いたことを書きましたが、今度は生まれた後ぐらいから、どんなことを考えていたのか、ちょっと拾ってみようと思います。

031219

他人どころか自分すら益さぬ行為がある。

人の悪口がそれである。

ただ金も手間もかからぬ故に人は手軽に用いてしまうのである。

*三浦綾子さんの書物の中に、人の悪口を決して言わない青年がいたという話しがありました。これはなかなか難しい。私とて私とは言わず、誰かに悪意があったり、害意を持つ人、怠惰であったり、人情に薄い人には苦情や皮肉などは言わずにはいられません。まだまだ未熟者だと反省します。

040922

何かに不満があるときは大抵、

何にも感謝していないことが多い。

*これを書いたときはそれほどでもありませんでしたが、今は水の一滴、米粒のひとつに至るまで、有難く感じるようになってきました。これまた有難いことです。有難いと感謝することはお金をかけずに幸せになれることですね。小さな幸せって結構バカにできません。

041004

いのちはむかし

どこかでうまれ

だれかがはこび

あなたにたどりついた

だから

あなたもまた

いのちを

だれかにおくりなさい

*命は自分だけのものではありません。あなたは自分を所有できません。その証に自分で自分を直接見ることができません。自分の命の長さを知ることもで来ません。だいたい自分の心を完全にコントロールできないじゃないですか。自宅のテレビは片手で完全にコントロールできますけどね。命は何百万年も昔から脈々と自分に流れ着いてきているものです。それを「俺の、私の好き勝手」で終わらせるなど、とんでもない誤解、曲解、妄想、拡大解釈の類です。自分が生まれるまで一体何人の先祖がいたのか、計算してみるといいでしょう。更に自分に関わった人、関わった人の先祖を想えば、おいそれとたったひとつの命でも蔑ろにはできないはずです。

060909

感謝はしすぎることがない。

言葉の通りです。文句があるときや、不満があるときは大抵、感謝が足りません。

不幸に感じているときや心がすさんでいるときも同じ。

不幸は「なる」ものではなく、「する」もの。

まあ、幸せは「なる」ものですかね。

不幸の中にも幸有れと思える人は達人だと思います。

私もチャレンジしてますが、正直まだ苦いことが多々あります。

071005

忍耐には2種類ある。

試練をやり過ごすためと、

目標に至るためと。

うちの道場の道場訓に「忍耐はまず一服の間とぞ知れ」というのがありますが、その場合の忍耐は上記で言うところの後者に当ります。忍耐は目標に至るための準備期間に当てよ、ということです。歯を食いしばっても食いしばらなくても同じです。プライドが傷つこうがつくまいが、同じです。だったらそんなことは一切合切抛擲して、次の準備に用いた方がよほど役に立ちます。

ちなみにこれを書いた頃は人生で最悪の精神状態だったと記憶しています。笑ってしまうほど無力、非力でした。この頃の碧洲齋は簡単に倒せたことでしょう(笑)それでこんな事を書いたのかも知れません。

過ぎてみれば、なにげに書いたことも別の色を発するというもの。

また年月を経て、別の色になるやも知れませぬ。

平成二十五年弥生八日

不動庵 碧洲齋