不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

無拍の拍

たまには武芸者らしきことを書かねばと思いつつ、なかなか技術的なことについてはまとまりが付かぬ体。思いつきで書くことにします。

拍子を取る、拍子を付ける、拍子を合わす、色々あると思いますが、呼吸と動作に合わせて強弱緩急を付ける事を指します。

武芸に限った話しではなく、古今東西を問わず音楽はもとより、日常の生活にも広く用いられてきています。

その行為のコツ、覚えやすさ、質を上げるためでもあります。

これがないとなかなか身に付きにくいのではないでしょうか。

人には大別して二つの動きがあります。

拍子のある動作と拍子のない動作。

ある目的を持って動く場合が前者、そうでない場合が後者。

意識を持って動く場合が前者、そうでない場合が後者。

機能性・効用を持つ場合が前者、そうでない場合は後者。

他にも色々あると思いますが、ざっとこんな感じでしょうか。

無意識に拍を付け、読み、覚えます。

本能的に脳がそのように処理しているからです。

脳は通常3割程度しか使われておらず、残り7割を使えば・・・なんていう都市伝説がありますが、残り全部使ったらオーバーヒートして死にます。もしくは脳の一部が損壊します。

時々異常な能力を備えた人がテレビに取りざたされますが、性格的に正常でない場合が多いのはその為です。

で、その3割という限られたリミットを最大限効果的に利用するために用いられている手法が拍子を付ける、とか関連付ける、とかいうものです。視覚的な錯覚を用いた図形などがありますが、それなどは人の本能の関連づけを利用したものだと言えます。

そのようにすることによって人は膨大な情報をコンパクトにして覚え、自由に記憶の引き出しから出し入れします。

と、上記は主に人間の脳についてです。

動物は人間の言うところの拍子で覚えていないようです。

動物は概ね無拍子です。故に起こりが見えないという言い方でもいいかもしれません。

試しに動物園に行ったとき、動物がした動作を完全にトレースできますか?道場で先生の動きがトレースできた人でも、動物園で動物がどう動いたのか、トレースできる人は少ないでしょう。

ライブや劇などでは壇上の人がどう動いたのか良く覚えているのに、動物園の動物の動きは余りよく覚えていません。そもそも動物を見に行くときにその動きに注意する人は学者でもない限りあまりいないと思います。

動きを発生させるときも拍子ですから、それが見えないとまずそこで一拍見えないことになります。さらに攻撃されるときにも拍子が読めないともう一拍、二拍もあれば達人なら十分に命を奪うことができます。

見ると言いましたが、人の意識が起動しているときは正確には「観る」。そうでない場合は「見る」。英語で言うところのlookとwatchのようなのかも知れません。要は拍のありなしで「観る」と「見る」がスイッチされます。

普通それは意識できないと思います。つまり目に映っていても「観る」ではなく「見る」であれば、意識に昇って分析して対処するまでのタイムラグが出てきます。その微細な間隙を縫うことができる人がいわゆる達人です。

よく武道家のDVDなどを観て「ホントにこんな技、使えるのかよ」などという連中がいますが、そういう人はまず拍子を読めない、拍子を知らない方が多いのではないでしょうか。DVDは確かによく見えます。が、それだけで完全に拍子まで見える人がいたらなかなかの技量の持ち主でしょう。

そもそも動画ごときで拍子が見えたら何の苦労も要りません。逆に動画程度に見える拍子を遣うのはシロウトです。

例えば当流の宗家などもそうですが、今まで何人か見てきた達人たちは、動きをトレースしにくいと言えます。見ていながらなかなか覚えられない。拍子がなく、異常な動きをあまりしないから。脳は上記の理由から、ごく正常範囲の動作は意識に止めません。日常動作(パラメーターは人によって違うとは思いますが)にまで意識を持っていたら、脳がオーバーヒートしてしまうからです。だから正常範囲からはみ出た動きをパターン化して覚えるわけです。逆に正常範囲内ギリギリで動かれた場合どうなるか?ご想像にお任せします。

師に師事して早27年、長いだけです。皆様が想像するほどの技量ではありませんが、ともあれ呼吸がよく分かります。受けをさせていただく際、例えば突きであれば、なれ合いや予定調和の違う類は一切合切しません。よけなかったら完全に命中して、大怪我というレベルです。スピードだけは出しません。早すぎると他の方が見えないので。そもそも高速は自然の動きからはみ出る動きです。だから自然の動きからはみ出ない、最高速度と限りなく消した拍子で、師に向かって攻撃するわけです。

受けをするとき、私はある意味手加減しません。奥義の限りを尽して意識を消し、呼吸を消し、拍子を消して最大限に自然の動きと完全なバランスを保ちつつ、攻撃するわけです。本来受けはこのくらいあって然り。予定調和となれ合いの受けほどタチの悪いものはありません。こういうパートナーは真面目に稽古をしているあなたの稽古時間の半分を無駄にしているのです。受けは捕りのサポーターではありません。助演俳優でもありません。その辺り、よおく肝に銘じてください。他人様の稽古の時間を貪ることぐらい罪なことはありません。そう思えば受けも真剣になろうというものです。

師の受けをするときはやはり読まれています。攻撃のタイミング、微細な動きのリズムを全て先取りされ、1/3拍、1/4拍以下というレベルで外されます。「あーやられた」というのではなく、無意識に予定していた拍があり、それの前後にずらされたことに対する驚きが多くあります。無論、完全に攻撃が成功した場合は技は掛かっても読まれないことが時々あります。さすがにシロウトではないので。

この微細な拍の取り合いというレベルにあるのかなと思った人は今まで数人いました。いたように思います。日本人にも外国人にもいました。手の内を明かすと、今私はこの無拍の拍を目指しています。稽古方法や独り稽古の手法もある程度確立しています。肉体的と心理的、両方から攻めないと難しいのですが、苦労の末、ある程度道筋ができてきたようなので、今はそれに従って実践するだけです。

古の武芸者たちも、拍子について綴っているものが多くあることは知られています。文量が多くなったので割愛します。

武芸における無拍の拍。動物が持つ無拍。流儀を極めるのに重要な視点と思った次第です。

平成二十五年弥生二十二日

不動庵 碧洲齋