今日は息子の熱がいまだ下がらず、やむを得ず午後半休にしました。
昨日は妻が休んだので、やむなし。まあ忙しい日でなくてよかったです。
昼に帰宅して昼食を取り、午後はごろごろと。
ごろごろと言っても私の私室である和室にマットレスだけを敷いて二人でまどろんだり本を読んだり。
ネットでニュースを見たり、少しテレビを見たり。たまには無駄な時間もいいものです。
禅では不立文字と言って、極力修行を文字に頼らないという考えがあります。
師によると、文字は森羅万象全てに対応できない、つまり言葉で説明が出来ないという言葉の不完全性があるが故に、言語を極力廃して、実体験に基づく修行を第一義にしていると言うことです。
私もこれを実践するようになってから、刮目したことが多々あります。
動物の親は子供に自分がしていることを見せています。
当然、動物には言語がありません。
猿やイルカなど、ごく一部の動物には人間が思っている以上に複雑で高度な言語体系があるとされていますが、ま、それは置いておくとして、犬猫のお母さんは子供達に自分がやって見せて教えています。いや、この場合は範を垂れるというのが正しいでしょう。決して教えていません。子供達も遊んでいるようでやはり肝心要の部分はちゃんと見ていて覚えています。多分、その辺りは動物の本能で、生存に不可欠なことは見てすぐ覚えるようになっているのでしょう。だから人間における「教育」、教えて育てるという概念は野生動物にとってはもどかしい上に不合理で、効果的でないように映るのかも知れません。
親がやっていることをそのままコピーする。これに言語は不要ですし、確かに完璧です。そこで学ばない者は、ま、何度か機会はあるかも知れませんが、それでダメなら生存不適格者となるわけです。
故に生存不適格者を育成することを「教育」というなら、そうかも知れません。要するにこれは人間専売特許の非自然な行為です。
五体満足でどこにも異常がない人間を、手取り足取り懇切丁寧に教育指導して育て上がったのは、はてさてどんな人間か(苦笑)。
そういうことで私はなるべく不立文字式に息子に範を垂れています。
毎朝、必ず水を仏壇の前で湯飲みと花瓶の水を替えて、線香を焚き、声が聞こえるように部屋を空けて読経します。
朝食も欠かさず作ります。片付けも可能な限りしてから出勤します。
帰宅しても速攻炊飯したり、息子に風呂の準備を指示したり。
週に何度か洗濯物もやりますが黙々と。息子の分だけはやらせます。
毎日朝晩、キッチンの掃除も黙々と感謝を込めて・・・。
文句を言いながらやってはならないというのが肝心です。
黙っているだけだと不満そうに見えます。
だから感謝を込めて掃除をするわけです。
なるほど、やはり昔から言われてきていることは確かに理にかなっていると内心苦笑すること多々あり。
休みの時は本を読みます。最近、また、読むようになりました。息子に読めとは言いません。
勉強をしろとは言いません。勉強をしないといい学校に行けないとか言い会社に勤められないとか脅したりなだめすかしたりという浅はかなこともしません。出来るだけロシア語の勉強や武芸の稽古をしているところを見せます。
風呂に一緒に入ると、ほんのちょっとだけ仏教の話しや科学の話しはします。
なるべく不満や悪口は言わないようにしています。
ま、一般常識や道徳観念に鑑みて「誰々さんは困ったねぇ~」ぐらいはたまに言いますけど。
いくつかの国に関しては本気で腹が立ちますが、それでもそこの政府と一部の人間だけ、となるべく言っています。
教えてやろうとか躾けようなどと思ったら最後だと、私は思っています。
息子の原始本能を呼び起こさせて、自ら見てまねるように仕向けさせるだけです。
まねないかどうかは私次第、彼次第。
よほどのことがない限りは強制させるなど、おぞましい限り。
忍耐と寛容を以て行うだけです。
子犬、子猫と同じ、自分で見て覚える。重要だと気付く。非言語伝達(non-verbal communication)というやつです。
これは言語による伝達とは比較にならないくらい確実です。ウソ偽りがないからです。いやできません。
敢えて言語に頼らざるを得ない場合は、人の信義や道義について語らねばならないとき。
色々なケースがありますが、例えば「絶対に死んではならない。どんな場合でも生き延びねばならない。ただし、自分一人の犠牲で何人も助けられるという確信があった場合は、絶対に躊躇してはならない。その場合、躊躇したら死ぬよりも苦しむ羽目になる。」とか言います。ごく一例ですけど。
しかしそこ言葉を裏付けさせるに十分な、父親の日頃の行動がものを言います。
やはり息子が見ていないからとか、誰も見ていないからとか、その場しのぎでは行動にオーラがありません。言葉を使ってもパワーがありません。だから日頃から行いを慎むことが肝要なのです、と感じています。
平成二十五年弥生十九日
不動庵 碧洲齋