不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

変わる?そうじゃない、変える

私はいつも、人は植物の種のようなもので、朝顔みたいに1週間で咲くものもあれば、楠みたいに何十年何百年かかるものもあると言っています。神童もいれば、老成して功を成す人もいるわけです。よほど強固な意志の持ち主でない限りはそれをいつ咲かせるのか、自ら定めることは至難の業かと思います。大抵は私みたいに運任せ。そして咲かない人も大勢います。

人はタダでは大成しません。やはりそれなりに徳を積み、労を積み、経験を積んでこその開花だと思っています。それらが堆肥となって花が咲きます。知恵者はそれがいつなのか推し量れる人もいるようですが、やはり多くは天機が急に来たりして知ることとなります。凡人にできることはその日がくるのを信じて、毎日毎時ベストを尽すこと。それに限ると思います。まあ、堅実な将来設計も大事ですが、将来設計に熱中していては本末転倒かと。

能力開発は魅力的ですが、やはり一朝一夕、インスタントに身につくものなどありはしません。ノウハウ本やテクニック本などがありますが、本1冊で身についたら苦労はありません。あんなのは単なるきっかけ、それ以上では決してありません。きっかけにすらならない場合の方が多いでしょうか。特に金儲けの話し、最近はFX関係のジャンクメールやジャンク広告を多く見かけますが、見苦しいしバカらしい。少なくとも私はそう思います。

今まで何人か、自分を変えたいと思っていて、あまり成果が芳しくない人に会ったことがあります。ほとんど共通しているのが「原因他人説」を公にもしくは密かに信奉していること。だからノウハウ本を買ったりして自分を変えようと思ってしまう。自分を変えるならものの見方を変えねばダメです。自分を変えるのはとても難しい。強固な意志があってもできるかどうか。

私の場合、10代の時に武芸を志し、相当たくさんの書籍を読みました。で、20代前半は主に留学、後半は社会人として経験を積み、30代前半に結婚して子供ができて、そこで禅の思想によってちょっと変わってきたのかなと思う程度。それでもそれまでの土壌あってのこと。今変えようと思ってすぐ変われたら何の苦労もありません。劇的に変われたら文字通りそれは劇薬で、一利あっても百害があります。

先日、ちょっと縁があって古本屋にも出せないよそ様の書籍の処分をしました。

持ち主がどんな方なのかは分からないのですが、束にして3つ4つぐらい。

この持ち主がいかがなものだったのか、ふと思ったことがありました。

まず目についたのは英語関係の書籍。簡単にラクに楽しくみたいなノウハウ本が大量にありました。私も成り行きで英語を学び、今に至っては仕事でも私用でも使わざるを得ない状況なので少しは話しますが、外国人の友人を持てば嫌でも何でも覚えます。そして交流が楽しければやはり覚えます。異文化間のコミュニケーション能力も向上しますから、書籍などよりは遥かに効率がよいかと思った次第。私も今ロシア語を勉強してますが、一向にはかどらない。意志が弱い。しくじたる思いがします。幸いにして偶然にも私にはロシア人の親友がいて、すでに2度ほどロシアに行きました。勉強を継続するに十分な環境、論拠です。こういう天の配慮を蔑ろにしてはいけないと思います。(思っているだけではダメですけどね)当流入門時から高校卒業するまで、英会話関係の書籍は確か2冊しか買っていなかったと思います。実践ですね、やはり。学問に関してはそれ相応の努力をしていれば必ずおもしろくなるものですし、加速するような天恵、天機が現れ、環境が整ってくることが多いと思います。そうならないのは多分、方向が違うのか、努力が足りないのか。まだよりベターなアイテムに出会っていない、よりベターなアイテムがあるはず、なんて妄想を秘めている内はどんな能力も向上しません。

次に異性からのモテ方。何冊もありましたが、こういう事こそまさに書籍ではどうにもなりません。人間に限らずいかなる生物でも魅力のないのはやはりダメです。哲学的精神的に関係なく、生物学的に見て全くダメです。今の世の中、男も女も生物学的に魅力がある人が減ったように思います。それは自分の感覚器官や経験、体験で判断することが減ってきているから。メディアや他人に振り回されているからです。ダサい格好をしていても、ヲタでも、趣味がなくても、甘く見てフリーターやプータローでも、何か惹かれるものがあれば女は付いていきます。まあ、フリーターやプータローっていうのは一時的、仮にって事ですけど。自慢するしないは別として、他人も認める何かを持っていないと惹かれないのです。故に原因他人説ではモテないのです。自信があるつもりの人はもっと厄介。他人から見たら一目瞭然なのに、自信を持ったフリをする。死ぬ気で努力したり何かに打ち込んでいたりすれば、そのオーラが出ているのですが、そうでない人。根拠のない自信は全く以て格好良くありません。努力しているかしていないかではなく、他の方がすごいと、ちょっとでも思っているかどうか、プラス人格やその人相応の社会的環境もあるでしょう。全く同じ貧乏生活をしていても「清貧」として讃えられる人もいれば、「赤貧」として嘲笑される人もいます。或いは「清貧」を愉しめる人、「赤貧」に喘ぐ人の差だと言っていいかもしれません。それは多分「モテる/モテない」の差に関係があると思います。

性格を変える、改善する、そんな類のノウハウ本もけっこうありました。習慣や行動で自分を変えるというヤツです。ある意味に於いて性格は変わりません。アウシュヴィッツに入れられても、北朝鮮強制収容所に入れられてもそうそうに変わるような類のものではないような気がします。何を変えるかというと、自分の社会に対する見方が変わるだけです。自分の立ち位置がどこかを識り、必要ならばその立ち位置を変える、それだけです。原因を外に求めるか内に求めるか、というのもあるかも知れません。その上で自分が育成してきたキャラを最大限に活かして社会に生きる、そういうものじゃないでしょうか。立ち位置を識るために知識を得る。向きや変えるべき立ち位置を探すために師を探す。そのヒント、きっかけ作りに書籍はありですが、それ以上のことはあまり紙上の文字ごときに求めるのはいかがなものでしょうか。私もこの強情で強引でエゴの強い性格を何とかしたいと思っていましたが、この歳に至って、立ち位置や社会の見方をわずかに変えることができる機会があったため、おかげさまでこの苦しみの多くを去らせることができましたが、それも多くの良師、多くの友人たちの厚情あってのこと。孤高のスーパーヒーローがひとりでに性格改善というアニメチックなわけにはいきませんでした。一人の精神力など、せいぜいそんなものです。私はそう痛感しました。

人にはそれぞれ天機があり、心底本気で気付いて変えることができる時季がありますが、臆して手を出しそびれる人も多々います。そういう人が変わらない人です。変わろうと思うなら、火の中に飛び込むぐらいの気持ちを持ってもらいたいと思います。その気概あれば、読むべき本、為すべき事が自然見えてくるものです。また、本気で支えてくれる友や同志、師が現れるというものです。

平成二十五年弥生十九日

不動庵 碧洲齋