私はバリバリの禅宗仏教信徒ですが、聖書もコーランも読みます。
特に聖書は世界で最初に広く普及した書物で、今でも世界で一番多い書物だと聞きます。
高校生の時に武門に入り、外国人と多く接するようになりました。
彼らのものの考え方を理解するためにはやはり聖書は避けて通れないと悟り、あの分厚い聖書を読むことにしました。
高校生の時に読んだ聖書は砂を咬むようでつまらなかったように感じました。
その後、留学時にも読みましたが、その時はとっかかりというか、光明が見えた気がしました。
就職後に2.3回読み、今度は英語版も1.2回読みました。留学時も所々読みましたが、このときは全部読みました。とても大変だったのを良く覚えています。
が、このときは聖書の奥義というか、深い部分で共感がありました。
クリスチャンになろうとは思いませんでしたが、イエスキリストが言わんとすることがとても理解しやすかったように感じました。
この頃に読んだ経験は今に生きています。
その後も何度となく読み返しました。聖書に限らず名書は何度読んでも読み尽くされることがなく、泉のようです。重歳するごとに無限の色彩を魅せてくれます。
聖書は今のイスラエルのある辺りの古くからの伝承をまとめたものです。イエスキリスト以前は旧約聖書と呼ばれています。聖書は読みやすいものですが、新約聖書に比べると旧約聖書は所々おもしろくないかも知れません。
あっちこっちの伝承をまとめて強引に一つの神様用に仕立てたものなので、矛盾してたりおかしかったりしてますが、それでもやはり世界に名だたる名書には違いありません。
機会があったら是非とも読んで頂きたい書物の一つです。これを読めば、基督教徒のものの考え方がよく分かりますし、仏教などより遥かに分かりやすいです。
・・・ということで私がなかなか感銘を受けた旧約聖書の言葉をちょっと紹介します。
あなたは、塵だから、塵に帰る。
創世記 3-19
*創世記に書かれていることが意義深く感じます。エゴを棄てよ、世に在ってはすべき事をして世を去れ、そんな気がします。
唯あなたは自ら慎み、またあなた自身をよく守りなさい。 そして目に見たことを忘れず、生き永らえている間、それらのことをあなたの心から離してはならない。またそれらの事を、あなたの子孫に知らせなければならない。
申命記 4-9
*この、最後の「あなたの子孫に知らせなければならない。」子を持つ親ならよく分かると思います。ここが重要です。ここが命の根源だと思う所以です。
武具を帯びる者は、それを脱ぐ者のように誇ってはならない。
列王紀上 20-11
*武芸者であれば皆、こうでなくてはなりませんが、軍事力を持つ国家の指導者も、このようであることを肝に銘じなくてはなりません。
誠実な者は、その正義によって救われ、悪しき者は代ってそれに陥る。
箴言 11-5
*嘘偽りをしないこと。遠回りで効率悪く、のろいですが、一番確実です。
隣人を侮る者は知恵が無い、敏き人は口を噤む。
箴言 11-12
*私自身、よくよく慎まねばならぬところです。ネット上で飛び交う罵詈雑言は胸が痛みます。
施しを散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、却って貧しくなる者がある。
箴言 11-24
*なかなか言い得て妙な表現だと思う一つです。須く人はかくの如く、富を持っていたいものだといつも思います。
愚者の道は、自分の目に正しく見える、しかし知恵ある者は勧めをいれる。
箴言 12-15
*信念は絶対にあって然るべきですが、その上で知恵のある人は忠告を受け入れられる器を持ちます。愚者にはそれがありません。自分も人の勧めには注意して受け入れるように努力しています。
愚者は、すぐに怒りを表す、しかし賢者は、辱めをも気にしない。
箴言 12-16
*エゴを持つと物事をサラッとできないものです。それが引っかかると怒りになります。賢者というのは為すべき事に集中できる人ではないかと思ったりします。禅でもそうです。
剣を以って刺すように、みだりに言葉を出す者がある、しかし知恵ある人の舌は人を癒す。
箴言12-18
*言葉の持つ魔力、日本でも「コトダマ」と言われる所以でしょうか。この文句も知恵ある書に恥じない名句だと思います。
敏き者は知恵を隠す、しかし愚かな者は自分の愚かな事を表す。
箴言12-23
*知恵や知識、見識なるものは隠しに隠して、なお漏れてくる程度が奥ゆかしくかつ神々しいと思っています。見せびらかす程度はまだまだ薄く、軽い。私も気をつけたいところです。
富んでいると偽り、何も持たない者がいる、貧しいと偽り、多くの富を持つ者がいる。
箴言13-7
*これも箴言11-24と同じく、それを持つ者の機妙さをよく表わしていると思います。私もこのようでありたいと思います。もちろん、お金はあるに越したことはありませんけど。
急いで得た富は減る、少しずつ蓄える者はそれを増すことができる。
箴言13-11
*これは国家でも個人でも同じ事が言えますね。富でなくとも技や知識でも全く同じ事が言えます。
嘲る者は知恵を求めても得られない、敏き者は知識を得ることがたやすい。
箴言14-6
*英訳では知恵をwisdom、知識をknowledgeとしていますが、愚か者は最初からwisdomを手づかみにしようとする愚かさを言ったものでしょうか。また同じく英訳ではdiscerning/明敏なこと、としていますが、明敏でなければ知識は得られないという辺り、なかなか深い洞察のように感じます。
思慮のない者は全ての事を信じる、敏き者は自分の歩みを慎む。
箴言14-15
*瞞されやすい人は特に心に刻んでおきたい言葉です。テレビを見て流行に走る人が多い日本人には痛い言葉です。
怒り易い者は愚かな事を行い、賢い者は忍耐強い。
箴言14-17
*徳川家康も「堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思へ」と言い残しているくらいですから、これは古今東西の真理なのだと思います。
全ての労働には利益がある、しかし口先だけの言葉は貧乏を来らせるだけだ。
箴言14-23
*禅的にはこれはなかなかいい言葉だと思います。論語にも巧言令色少なし仁とあります。口の上手い人には注意したいところです。そして自分の口の滑らかさも慎みたいところです。
怒りを遅くする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさを表す。
箴言14-29
*前のブログにも書きましたが、怒りは何にでもマイナスです。核兵器の安全装置のように厳重に管理し、それを使わずに済む方法をよく考えたいところです。
欺き盗ったパンはおいしい、しかし後にはその口は砂利で満たされる。
箴言20-17
*ものにしても知識にしても何にしても、他力によるものを盗んだ場合、そのものの価値すら貶めかねません。むろんそれを行った本人もです。パクリには気をつけたいところです。
自分の心を制しない人は、城壁のない破れた城のようだ。
箴言25-28
*さてさて、ここが禅でも難しいところ。基督教でも難しい部分であると思います。心の原義は「ころころ」だと言われています。あっちこっちころころするものが心の原義なら、やはり平常心でいなければならないと思います。
愚か者を臼に入れ、杵を持って、麦と共にこれを突いても、その愚かさは去ることがない。
箴言27-22
*この句は冗談や皮肉交じりに私がよく使いますが、日本の文句で言うなら「バカは死んでも治らない」ということでしょうか。厳しい言葉です。
事の終わりはその初めよりも良い。耐え忍ぶ心は、驕り高ぶる心に優る。
伝道の書7-8
*これも「終わりよければ全て良し」でしょうか。有終の美を飾ることを至上とする日本人にはこの句はとても親しく感じると思います。
私は限りなき愛を以ってあなたを愛している。それ故、私は絶えずあなたに真実を尽くしてきた。
エレミヤ書31-3
*少々恥ずかしいのですが、実は旧約聖書の中でこれが一番好きな文句です。これを実践しようと毎日もがきあがいていますが、なかなか難しく、故にやりがいのある文言ではないかと思っています。
次回は余力があれば新約聖書の方も紹介したいと思います。
平成二十五年弥生十四日
不動庵 碧洲齋