許すの原義は「相手の言を聞き入れる」だそうです。
「オマエはバカだ!」
「はい」
「あ、すまん、言い過ぎた」
「はい」
こんな感じ。
上記の場合は人の性善説に依っていると言えます。
国家間ではなかなかそうはいきませんが、同じ国の人間同士であれば、道徳観などに大きな違いはないと言ってよいと思います。(多分ね)
できたら日本人同士なら性善説に基づいて思考したいところです。
何かやってしまって過失があり、心に痛みを覚える、何か言いすぎて心に痛みを覚える、基督教ならさしずめ「罪」というのでしょうけど、その痛みを感じる限りはまずはましな人間だと思います。その痛みとどう向き合うかという命題です。
10代は日本や中国の歴史上のヒーローにあこがれ、彼らの偉業を読みあさり、そのようにしようと思っていました。
20代は社会人になり、自分の哲学と現実のギャップに苦しみました。
30代は泥水が上澄みと泥に分離するような感じで、用いるべき知識と実践を理解しました。
そして今は成すべき事が比較的よく分かってきたように思います。
少々癪ですが、孔子の学志、而立、不惑はなかなか正確だと思った次第。
逆に考えれば孔子ですらそうだったのですから、慌てることもないかとも思います。
人を許すという行為が最近特に嫌うようになりました。
オレサマは人を許すとか許さないとか言えるほどエラいのか!
そんな感じです。
もちろん、許してはいけないこともあるかも知れません。
幸い、そんな深刻すぎる状況には滅多に遭遇しませんが。
許すとか許さないとかいう気持ちが強い人は得てして自我が強い人のように思います。
私もかつてそうでした。今でも時々そう思います。
誰に対しても無条件で性善説でいられるほどに善人ではありませんが、むやみやたらに大したことない自我を振りかざすのはもっと愚かです。
これはあくまで個人のことですよ。
組織とかになったら、ある意味厳しく批判に晒されなければなりません。
個人の慈悲にすがっているようではダメです。
基督教でも重要なポジションを占めるこの「許し」、やはり人間を成長させるにもなかなかこれで重要な役目のように思います。
平成二十五年弥生十三日
不動庵 碧洲齋