昨日は某福祉施設に行き、甲冑仲間達とちょっとした寸劇を披露いたしました。
自前甲冑歴9年の私もこういう施設でやるのは初めてです。
正直に言うと、やはり現代は障害者に厳しい部分が多々あります。
身体的な傷害だけであればまだしも、精神的な障害者に対しては心痛むような差別が社会には厳然としてあります。
大人になった今、私はそういう差別は憎みますし、そうしないように心がけています。
(表現があまり上手くありませんが・・・)
寸劇は50人近い施設利用者さんと職員さんが観客でした。
寸劇を披露している間、一番感動したことがありました。
集合記念撮影の際、隣に並んだ左右の障害者の方がスッと自然に私の手を握りました。
そのとき、誰にも見られなかったと思いますが、私自身、思わず涙が出そうになりました。
上手く言えません。みんなが自然に手を取り合うという形と言ったらいいのでしょうか。
人は皆、自分だけの物差しを持っています。
そしてそれはインチとセンチと寸のように合いません。
誰かの好意があります。
人は皆、その好意に物差しを当てます。
そして・・・
ぴったり尺に合ったものだけ選別して、それには感謝をしますが、そうでない場合は社交辞令を言ったり、まずいと言ったり。
他人の意見に対しても然り。
自分の尺度に合うかどうかで判断しがちです。
手をつなぐことも同じです。
右の方は女性で左の方は男性でしたが、どちらも多分、私よりも年上だったように思います。
男女で手をつなぐ場合、好みに合うかどうか、危険かどうか、好ましいかどうか、不愉快に思うかどうか、好意を持たれるかどうか、嫌われないかどうか、etc,etc。私たちは際限のない、壊れた電算機のように答えのない計算を循環します。そしてそれが疲れたり、心を病んだりするわけです。
施設の方々は違いました。
仏心そのものです。完全に仏性のままに行動しています。
善や悪といった、私たちが物差しのよりどころとしている、相対的なものの見方から離れています。
私たちが自分の手持ちの定規で、遭遇する事象に対して推し測ろうとしますが、彼らは違いました。
絶対的なものの見方です。
そういうものの見方をする方々がスッと差し伸べてきた手の温かさで、自分の心の卑小さに恥じた気がしました。
禅でも己などという幻想を捨てたり、自分だけの尺度(相対的視点)がどれだけはかないものかを教えています。絶望的なくらいにそれを捨てるのは難しい。それに気付くだけでも一苦労。
しかしその先に、無念無想無心のありのままの仏を感じられる日が来ると思うと、修行をやめたくなくなります。
機会があったら息子にもこのような素晴らしい経験を教えたいと思います。
昨日は非常に得難い経験ができたこと、機会を与えてくれた友人、関係者の皆様に感謝したいと思います。
平成二十五年如月三日 鬼去りし日に
不動庵 碧洲齋