不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

義なるもの

正義とか仁義とか語るのはあまり好きではありません。

そういうものは黙って実行すればよいのであって、補足以上に語るべきではないからだと思っています。

しかし私なりに時機を感じ、敢て書くことにします。

義の字義は我が羊を捧げる様を表わしています。人が神に生け贄を捧げるに当って、無念無想でなくてはなりません。エゴイズムが生け贄を持っても意味がないのです。

自我を消失させて己の為すべき事に尽力する、そういうことだと私は解しています。

戦争は正義と正義のぶつかり合いですから、どちらが正しいというのはありません。ひとりひとりが国の為に尽力しているかどうかが「義」だと思います。真剣に戦っているときに法に反して敵国を利するほどの反戦を訴えたり、敵国に寝返ったり、そういうのが不義と言います。

個にあって義はやはり正義、義を正すことにあると思います。

嘘をついてはならぬ、不義をしてはならぬ、傷つけてはならぬ、殺してはならぬ、盗んではならぬ、親に忠孝であれ、師に従順であれ、妻に誠実であれ、などなど言ったらきりがありませんが、これらは日本だけではなく未開の民族から先進国のホワイトカラーに至るまで、普遍的に守られるべきものと認識されています。

親バカの私は基本、子供の教育という視点で考えて行動しています。それは私の修行の一環でもあります。

「人は正義たれ!」

息子にそう言いたかったら、自分も絶対的に不義を働いてはなりません。

自分が誠実に実践していない、ウソの言葉には決して力がありません。

例えば知り合いや友人に美人の人妻はけっこういます(笑)。かわいいお嬢さんもけっこういます(笑)。自分も男ですからフラフラ~っとならない保証はありませんが、やはり息子からの信頼を失うことぐらい、この世に喪失感の大きいことはありません。裸の美女が隣で寝そべっている様を見られて尚、誤解されないぐらいの人間である為には、やはり日頃から我が身を戒め、何の為に生きているのか明確にしておく必要があります。まあ、仲間由紀恵様級の美女からお誘いされたらチョット難しいかも知れません(ウソウソ・笑)。

審判者による勝利、まあこれも決して楽なものではないことは分かります。が、私は自分で下した勝利を最たるものにしたいところです。紙切れや記念品如きで舞い上がって自慢しているような勝利は所詮そんな程度です。武芸者は紙切れや置物如きに保証されてはいけません。自分がそれらを保証せねばなりません。また、本当に強い人間はそういうものを持っていたとしても、やはりまず、何よりも自らに打ち克っています。真に強い敵は24時間365日、気付いてから死ぬまで付きまとっています。それに打ち勝ち続けることが、武芸者にとっては重要ではないかと思います。

義を守るには強くなくてはなりません。当たり前です。しかしそれは往々にして賞状やトロフィーなどに因るものとはおよそ関係ない世界であることもしばしば。それもそのはず、相手がいたり審判者に決めてもらった勝利は「決めた場所、決めた相手、決めた時間、決めた規則」に依存したもの。真の強敵はそんなところには間違ってもいません。真の強敵はそんなものを無視してやってきます。それに打ち勝てるかが武芸者にとって命題であり、問題なのです。それに打ち勝てれば、まずまず義を守るに不足無しと言えるかもしれません・・・多分。

理想が過ぎますが、義を行う、義を守るということはそのくらい難しい事ではないでしょうか。最近はドラマでも平気で不倫をもてはやすものもありましたし、そういう人も昨今、少なからず見かけます。まあ、人は元は弱いものですから、義を守れぬばかりに厳しい非難を受けねばならない、ということではありませんが、したり顔で義人ぶる輩を見ると吐き気がするのは事実です。皆、なかなか義を全うできないから恥じて慎み、それが日本の社会で能く機能していますが、エセ義人からはとても臭い匂いが漂うものです。それが周囲に迷惑を掛けていればなおさら、それでもそれをだまし通したり知らぬ振りをするという者こそ天誅が下ったり、神罰が下ったりするのではないかと思います。

随分と偉そうなことを言ってしまったようですが、私もただ、義からなるべく外れないように生きている一人に過ぎません。

平成二十五年如月二十六日

不動庵 碧洲齋