別段、私に限ったことではないと思いますが、多くの場合、誰かは誰かの友人であると思います。
そしてそれは数ヶ月だったり一生だったり、今の世の中であれば直接面識がなくとも、年齢差があろうとも親友であったりすることもあるでしょう。
私なども地球のあちこちに親友と呼べる友がいます。
私より10以上若い人もいますし、祖母と同じぐらいの年齢の方もいますが、いずれも私が精進するに当って、御仏の使いか神の使者か、私をよい方向に導いてくれています。
私自身、物心ついた頃から中学生ぐらいまでと、高校生から結婚するぐらいまで、まずは親友と呼べる友人がいましたが、音信不通になってしまいました。
人は日々成長します。3日も会わなかったら見違えるほどというのは大げさにしても、確かにそういう人もいます。
私などはカタツムリでも遅い部類ですが、まずとりあえず停滞していない類の隅っこだと思っています。
時が経るにつれて、合流したり袂を分かったり、色々です。
そういうことはあって然り。あるから人生が楽しいとも言えます。
師であれ友であれ、自分相応の人しか現れないことはよく知られています。
そういうアンテナを張っているからなのか、そういう感覚が人材をキャッチするのか分かりませんが、有志には有志の、利権には利権の友しか現れません。
人は霞だけでは生きていけませんから、利権の友を排除するより利用してかつ距離を置きたいものですが、清廉潔白というのはそのくらい難しいものかと思います。
友誼の在り方は中国思想の中でも論語をはじめ、色々な諸子百家に記載があります。
昨今の中国では血族以外は朋友をも信じられぬ風潮が蔓延しています。
やるせない気持ちと、残念な気持ちが交差します。
昨夜、なにげに本棚にある諸葛孔明語録を取り出し、ぱらぱらとめくっていたら、友情に関する記述があったのでここで紹介したいと思います。現代訳は私によるものです。
交論
勢利の交は、以て遠きを経難し。
士の相知るや、温にも華を増さず、寒にも葉を改めず、
能く四時を貫きて衰へず、夷険を歴て益々固し。
交流を論じる
打算的友情は長続きしにくい。
士たる者の友誼は、春に華咲かせず、冬に葉繁らさず、しかし
四季を通じ決して衰えぬごとしであり、困難を経て更にその絆が固まるものである。
さすが諸葛孔明、彼をしてなかなかの名言です。
孔子も「歳寒くして松柏の凋むに後るるを知る」
と述べていますが、常緑樹の碧さは人の節操にも見立てられるとおり、人もこのようでありたいと思います。
真の友情は相手に因るものではなく、己の器量や忍耐、互いの切磋琢磨、打算のない行動によって始まり、培われていくものだと感じた次第です。
平成二十五年如月二十六日
不動庵 碧洲齋