不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

ひとつ屋根の下

1993年に『ひとつ屋根の下』というドラマがフジテレビで放映されました。

なかなか視聴率が高いドラマだったと思います。続編も作られ、これは1997年に放送されました。今考えると凄いキャストでした。そういえば酒井法子さんも出ていましたね。

「うさぎってさみしいと死んじゃうんだから」超有名な台詞です。科学的にはそのようではなさそうですが、彼女だから許される台詞でした。

どのシーンだったか、江口洋介演じる柏木家の長男、達也がこんな事を言いました。

「許すとか許さないとか、人はそんなに偉くないと思います。」

『ひとつ屋根の下』で一番心に残った言葉でした。

これが今に至るまでずっと心にひっかかる命題になっています。

私はこの頃20代後半でしたが、私は基督教についてかなり熱を入れて学んでいました。信徒になろうとかではありませんでしたが、基督教の教えに合点がいくことが多く、非常に感化されました。

先に結論から言うと、「許す/許さない」は神の領域、「許される/許されない」は人の領域、と私は思っています。少々端的ですが、そんな風に思います。人が人を許すという行為が傲慢であれば、人が自分で「許される/許されない」と思うのも慎み深さです。

特に最近では「よし、お前を許そう」とか「お前は絶対許さん」とかいう言葉を聞くと気分が悪くなります。私も寛大ではありませんし、神でもないですからどうしても未だに許せぬ人もいないわけではありませんが、彼は許し、我は許されず、という姿勢を保つことは、世知辛い世の中を生きるに当って問題が少ないと思います。

そう考えると、イエス・キリストはものすごい胆力のある方だったと思います。

じっくり考えると様々な罪や苦しみに喘ぐ人に「許す」なんて言えません。

神様の代わりか何か分かりませんが、「許す」と宣告することは、その人の苦しみも背負ってあげる覚悟が必要です。それこそがイエス・キリストが「神の子」と称される所以だと、いつも思い、深い感銘を受けます。

偉そうなことを言ってますが、私にも未だに人生で数人、コイツは許せぬ、と思う人がいるのも確かです。こういう人たちは場所柄もう会うこともないか、時間が解決してくれるか、もっと自分が大きくなれば忘れるか、というのにあてはまることもありますが、そうでない人も一人二人います。昔の友人ですが、別の友人を通じて、「俺の目の前に現れたら、すぐその場で決着を付ける。詫び入れ、無条件降伏はまかりならぬ」と言い渡してしまいました。今でもばったり会ったら、問答無用で一撃喰らわさずにはいられません。が、そう言い渡してから10年以上、同じ市内にいて出遭いません。神の仕業か相手が逃げているのか。

私も結構失敗します。先日も気配り不足でエラく叩かれました。努力してもダメな場合はあります。それはそれで悩んでみても仕方ありません。可能な限り早く誠実に謝るしかないです。許す許さないは別次元の話し。その人の自由であり、私がどうするものではありません。やるだけやったら後は考えるだけ時間の無駄、精神衛生上よろしくありません。

自分は相手の間違いに対しては許す/許さないという立場に立たず、労りたいところです。「許す/許さない」という権威の椅子は居心地がいいです。気分が良くなります。しかしそれは偽りの快感です。まやかしの権威です。そういうことを避け、なるべく触れぬような努力は修行と言えるかもしれません。

「許す/許さぬ」という発想だけではありませんが、そういう相対的な発想、ものの見方は敵味方を区分けするだけで、何の意味もないばかりか、我ら大和民族の名を汚すものだと、結構本気で思っています。大きな和という漢字を古来からあったのであろう自称「やまと」に当てた、私たちのご先祖様に恥じないようにしたいものです。世界でも日本人の生き方は問題はあっても間違いなく「和」であることは2.3の国を除けば異論を唱える国はないでしょう。私はそれを壊したくないだけなのです。

今を遡ること1400年以上前に、なかなか言い得て妙なことを文にしたためたものがあります。

私は今の気分をそれに托したいと思います。

【原文】

「一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。」

【読み下し】

「一に曰く、和を以って貴しと為し、忤うこと無きを宗とせよ。人皆党あり、また達れる者少なし。ここをもって、或いは父に順わず、また隣里に違う。然れども、上和ぎ下睦びて、事を論うに諧うときは、則ち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」

【現代語訳】

「一に言う。和を何よりも尊び、諍いを起こさぬことを根本としなさい。人は徒党を作りたがり、悟りきった人格者は少ない。故に、君主や父親のいうことに従わなかったり、近隣の人たちとも上手く行かない。しかし上の者も下の者も協調・親睦の気持ちを持って論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就するものだ。」

平成二十五年如月十九日

命潰えるまで大和民族の名に恥じぬ者でありたい 不動庵 碧洲齋