不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

武徳について

門下の末席を僅かばかり汚しているだけの、末端の者が語ってよいのかどうか分かりませんが、敢て語ることにします。

戦争をする意志があって、その為の準備をしながら平和を取り繕うことが悪であれば、まさに戦争中に戦争運営に支障が出るほど反戦活動猛々しく叫ぶのもまた、民主政治国家に於いては悪だと思っています。戦争を決定した為政者たちは皆、選挙によって選ばれているわけですから。反論行為そのものは自由だと思います。

戦争が始まってから戦闘機を生産し、軍艦を建造するのは愚か者、兵士を訓練するのは愚かな指導者です。逆に平和な時代なのに民生に関するインフラ整備に資金を投じないのも愚かな行為です。

武人たる者は平時だろうが戦時だろうが錬成するもの。敵のいるいないから、ではありません。勝負は戦いの外に置く、です。平時にあって乱を忘れず、戦時にあって和を忘れずとは、相対的な意味ではなく、どちらであっても常のように錬成する心がけを言ったものだと思います。

武徳は「しんけん」に喩えることがで来ます。「しん」は「真・心・神・深・信・清」いずれにてもよし。「けん」は「剣・拳」どちらでもよし。どの組み合わせでもいいのですが、その反対の言葉は「邪剣・邪拳」だと思っています。「しん」をマックスに高める日々の努力が武徳ではなかろうかと、いつも考えています。

憎しみや怒りから武装したり蜂起したりすることはまず間違いなく邪な心が働いています。中国兵法にもベストの軍隊としてあげられる「義兵」、これが近代国家の軍隊に求められる姿です。幸いにして自衛隊は十分すぎるほどに「義兵」の資格があります。

敵とか味方ではなく、平時戦時にかかわらず無心に技術を磨き、戦に備える。真剣そのもの。「しん」が「真・心・神・深・信・清」どれになろうと遜色なければ、それが天に通じた軍隊ではないかと思います。

仮想敵を作り出して備えるはスポーツ格闘技、修行や錬成の副次効果として対峙した敵に対して有効というのが武芸、そういう言い方もできるかも知れません。各国の軍隊の場合はやはり仮想敵というのがあるでしょうから、仮想せねば装備についても練習についてもやりにくいとは思います。

武技を持ち、武器を遣える術を知りながらそれを否定する、それでいて遣う段になれば完全に遣う。この辺りが武芸者たる者の奥義ではないかと思います。

前にも書きましたが、一旦急あれば誠心誠意、祖国のために銃を手に取り、一兵卒として微力を尽す義務があり、私もその覚悟はありますが、同時に平時にあっては一般市民はいかにして国益周辺諸国との調和を乱さずして戦争を回避しうるか、選挙で指導者を選び、憲法で保障されている言論の自由を最大限に駆使して、それを行う義務もあります。

戦争回避に全力を尽さぬ者は、戦時にあっても全力たり得ないと思うのです。

戦争にのみ血眼になるような輩は平時にあっても有害です。

中国人に問題が多い人が多いのは中国人自身もよく分かっています。

が、これらを糺そうとする人がいるのもまた事実です。

私は誠心誠意、知り合った中国人たちには理を解き、和を示し、平和の尊さを共に語るよう努力していますし、息子にもそう教えています。

それでやむなく中国と紛争になったときはやむなしです。

天命だと思い、決着が付くまで死闘を繰り広げなければなりませんが、そんな場合でも日本人たる者が日中両軍が交戦している様をテレビで観て興奮するような愚かなマネはしたくありません。

そんなことをしたら最後、「日本人が武道をしている意義」が粉々に吹っ飛び、外国人武道家からの信頼を失墜させます。私はそれを恐れます。

昨日、昨年来日した中国人研修生からメールが来ました。

先日送ったメールの返事です。

そのまま転記します。

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すでに、友達といろいろ交流しましたが友達に日本人の行動を理解してもらいことはすごく難しいです。

原因は中日関係の複雑さと歴史の関係です。

友達はまだ中日歴史に拘っています。

中日政府は自分の管理のため、一般民衆に多少正しくない教育を教えました。

マスコミも一般民衆を正しくない道に導いていると思います。

特に中国側は日本に対して誤解が多くて、深いです。

お話したどおり中日関係がよりよくために私たち一人一人がよりよい関係を持ち続けるしかないと思います。

私自身は日本のことをよくわかりませんので、今後もよろしくお願いします!

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こういう人は中国では少ないのかも知れません。

でも確かにこういう人が中国にいて、関係悪化を防ぐべく努力をしています。

世の中を善悪でしか見られない人は言ってみれば白黒のペンキ缶を左右に持って、肝心要の刷毛を持てないようなものです。塗装できないので苛つき、罵ります。

一旦交戦したら後れを取らないつもりでいます。が、交戦に至るまで回避すべく最大限の努力をしたいところです。1世紀前ならいざ知らず、この現代にあって、両巨頭の日中が紛争を起こすよい理由などほとんどありません。ここまで来るとどこかで一度、決着を付けねばならぬ気がしているのもまた事実ですが、それを嬉々として期待する愚かさだけは持ちたくありません。

私はそういうところだけは誇り高い武人のようでありたいと、常々思っています。

平成二十五年如月十五日

不動庵 碧洲齋