不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

そうか、有名人か

今日は息子と共に図書館に行き、1時から遅れていたロシア語の勉強に打ち込みましたが、3時にミスドで休憩を取り、戻ってきたら全部席が埋まっていました。思えば受験の大詰めの時期ですからね。受験生に譲りましょう。 上の階にあった児童図書館に行き、息子に本を選ばせました。その間、草加市に関する歴史の本があったので目を通しました。 で、目にとまった人物が二人ほど。 大川図書 何を隠そう、草加宿の創設者です。名前は前から知っていましたが、今回彼の経歴を見て驚きました。 彼は元々土本氏を名乗り、小田原北条氏に仕えていた侍でした。豊臣軍の小田原落城の折に浪人となり、今のさいたま市岩槻区にある岩附城下で不遇をかこっていましたが、親友でもあった伊奈忠次備前守の計らいでこの草加の地に移り住みました。(しかも奇遇なことに我が家が位置する町内)その頃、草加の周辺一帯は沼地で、日光街道が大きく迂回していました。その面影を残す地名は今でも残っています。これは言い伝えですが、第二代将軍秀忠公が鷹狩りの際(草加周辺は将軍家の鷹狩り領地でした)、地面が非常にぬかるんでいるのを見て、「草を刈り取って湿地に敷け」と言ったことから草を加える、草加になったのだとか。それはともかく、江戸に近い割には非常に不便な土地でした。そこで当時推し進められてきた新田開発の一環として土地を整備して人が住めるようにしようと言うことになりました。その草加地域開発筆頭がこの大川図書さんだったわけです。彼を草加に派遣した伊奈忠次備前守は関東地方の土地開発で非常に功績があり、後に武蔵小室藩初代藩主となったほどの方です。埼玉県にある町名にもなってます。多分、伊奈忠次備前守は優秀な人材をあちこちに派遣していたのでしょう。沼地を埋め立て、河川を改修し、雑木林を切り開いて1606年、慶弔11年に日光街道が現在のルートになり、沿道に草加宿が開かれました。小田原城落城から16年、北条の落ち武者だった大川図書は戦ではなく、平和に貢献して功を成しました。彼を取り立てた伊奈忠次備前守もさることながら、戦国の世からすぐに頭を切り換えて、平和における武士の在り方を見いだせた大川図書の生き様に私は感銘を受けました。 歴史に名を残す武将たちは、気が遠くなるほどの敵を殺し、味方を死なせ、その地位に這い上がっています。しかし戦国の世が終わることを察し、気持ちを切り替えて平和に貢献できた侍というのも私は素晴らしいことだと思います。 草加で一番古いお寺には彼のお墓が今でもあります。今度、参拝してみようと思います。 柏戸宗五郎 この方は江戸中期の力士ですが、驚くなかれあの伝説の力士、雷電に土を付けさせた大関でもあります。雷電が三役クラスに敗れたのは2回で、その1回が柏戸宗五郎でした。そして雷電最後の試合でも引き分けを取りました。角界史では雷電の好敵手とされているそうです。武芸を志している者としては涙が出るほどうれしい郷土の有名人です。wikiにもちゃんと草加出身であることが載っているほどです。 こういう人が草加の風土を創ってきたと想うと、独り稽古の励みにもなります。 平成二十五年正月十二日 不動庵 碧洲齋