不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

聖書を読もう

月曜日に息子が熱を出した折、3学期最初の登校前にインフルエンザかと肝を冷やしましたが、単なる風邪で何よりでした。

その際、私の部屋でおとなしく寝ていたのですが、本棚から取り出したのは以前買った「まんが聖書物語」マンガと侮るなかれ、厚さにして5センチ以上もある長編です。内容は新約旧約の主要な編が描かれていて、なかなかの出来映えです。

前にも読んでいましたが、今回もよく読んでいました。

我が子ながらなかなかだと感心しました。子供の頃から外国人に接し、欧米の思想を知ればこそ、我が大和民族の世界での立ち位置、在り方を模索しやすくなると言うもの。日本の素晴らしさを自覚できるというものです。最近よく見かける、あの小林よしのり氏ですら呆れて引いてしまうような裏付けや確信のないネトウヨと呼ばれる人たちの跳梁跋扈を見ていると、息子にはそういう浅はかな人間にはなって欲しくないと思った次第。

日本人は「宗教」というと、少々偏見や先入観、固定観念を持つ人が多いようですが、自然の中に神を観る、人間を超越したものをあがめる行為は原始時代からあったことは考古学的にも分かっています。まあ日本人の場合はある意味、原始時代に近い宗教観念に近いかも知れません。一神教は嫌いだし、強制されるのも嫌い、個々の信条を掘り返されるのも嫌い、そして困ったとき(だけ)は本気で一心に神社にお参りに行く。そしてそれが受け入れられると思っている。一神教宗教学者からしたら日本人は総じて無宗教と映るのでしょう。

英語でも「Church goer」という言葉があり、いわゆる習慣で教会に行くだけの人、の意です。日本人でもさしずめ「Shinto Shrine goer」なのかもしれませんが、初詣以外でもよく、金髪でヤンキーな格好のにーちゃんやねーちゃんたちが一心不乱に祈っている姿を見ると、どう考えても日本人は無宗教ではないと思うのです。昨今、仏教界では生臭坊主を排除してまでもお寺で真剣に祈る人が多いと嘆かれていますが、聖職者がダメになっても宗教は見捨てられない辺り、日本人の宗教観は恐るべきものがあります。むろん、これあるに至って、仏教界でも本来あるべき仏教を模索している僧侶たちも大勢います。私はこういう僧侶たちを応援しています。

欧米人と接するに当って、私はアドバイスを求められた際は必ず「聖書をよく読めば、彼らを理解しやすくなる」と言っています。何せ世界で一番普及している書物だそうです。一神教とは真逆の日本人でも、素晴らしいと思わずにはいられない言葉がたくさんあります。これは本当です。恥ずかしながら個人的に聖書の言葉の通りに実践していることもあります。

私が初めて聖書を読んだのは10代後半、20代半ばには苦労して英語版も読みました。なるほどと感銘を受けた言葉は一つや二つではありません。むろん一神教ならではの、日本人には受け入れがたい教義もありますが、日本人にはない、素晴らしいものの考え方もあったりします。

耳と眼をふさぎ「日本は素晴らしい、日本は世界で冠たる国だ!」などと叫び、日本を批判する国は全て敵視するだけでは全くお話になりません。こういう輩では日本は衰退します。どれがいいというのはありませんが、明治時代に国際社会で活躍した政治家や軍人などは参考になるかも知れません。世はITの時代です。世界の裏側の国とも瞬時に連絡が付きます。言語の壁もチョットしたことなら自動翻訳もあります。語学学習も私が学生の頃に比べたら隔世の感ありです。非常に安く、しかも効果的に学ぶことができます。(ま、それでも努力必要ですけどね)

ともあれ語学はハードルが高いと思うのであれば、聖書をよく読んでみるのが一番、欧米人の心に接する近道だと思います。

平成二十五年正月十一日

不動庵 碧洲齋