折りえても 心ゆるすな 山桜 さそう嵐の 吹きもこそすれ
技というのはいわばケーキを食べやすくするために適当に切り出した一部のようなもので、本来なら一連の流れであるものです。
例えば人は産まれてから死ぬまで心臓の鼓動を打ち続けています。
運動や恋をしたら早鐘のように鼓動が早くなりますし、寝ている間は遅くなります。
不整脈で不規則になるかも知れませんし、仮死状態でしばらく心臓が止まった体験を持つ人もいるかも知れません。
ともかく、産まれてから死ぬまでは心臓の鼓動は止みません。
医者もその人が生まれてから死ぬまでの心臓の鼓動データがあれば、相対的に特定部分の健康状態がいかなるものか容易に分かろうというものです。無論、現実にそんなことは不可能ですから、任意の一部分を切り取って観察して推論し、症状を診断します。
技も同じで、武芸の一流派のそのまた大きな流れの中のごく一部を切り取って「技」と称しています。
技は数えることもできますが、本来技は数量で覚えるべきものではないと思っています。技は流派と云われるように大きな川の流れがあるを識った上で、水流の観て、川を渡る、そんなものではないでしょうか。時季や土地、その川の特性を知らずして渡河するは愚の骨頂かと思ったりします
残心、もしくは残身と呼ばれる心構えが武芸のみならず日本の伝統芸能にはあります。例えば武芸においては、一般的には以下のように説明されています。
「技を決めた後も心身ともに油断をしないことである。たとえ相手が完全に戦闘力を失ったかのように見えてもそれは擬態である可能性もあり、油断した隙を突いて反撃が来ることが有り得る。それを防ぎ、完全なる勝利へと導くのが残心である。」
個人的にはそういう低いレベルではないように思います。
本来、例えば環のようになっていた技を、便宜上切り取るに当って、元来、技は一連のものであったという「継ぎ目」の役を果たしているのが「残心」ではないかと思います。これが「残心」なのか「残身」なのかという問題は大したことはありません。「心身共に元来流れの中に埋没していたもの」ですから、どちらがどうだという問題ではないはずです。うまく言えませんが、残心は技のあるべき連続性を確かめる、つなぎ止める動作ではないかと思っています。これに関して、以前宗家が「技を極めてはいけない、極めると動きが止まる。止まった動きは死んだ動き」と述べていました。
残身は技術的なことを言えば、複数の敵と対峙するときには重要な心構えになります。心身共に一つの敵に関わっていたらすぐにやられてしまいます。心、身、知をそれぞれに向けて初めて、複数の敵に対峙できます。であればこそ、一連の流れに複数の敵を置けば、必然的に残身/残心の状態になります。事実、天神真楊流柔術の極意では前心・通心・残心について記されているそうですが、私もいつの頃からか自然、そのような心構えを知りました。
森に在っては一つ一つの木葉が風で葉擦れ枝擦れで音を立てていますが、生き物にはその一つ一つを判別することは難しいものです。総じてザワザワ、としか聞こえません。いつ始まるともなく、いつ終わるともなく。私はそこに残心の真理を観た気がします。
一つ一つの技から流儀流派を検証するのもよいですが、大河の流れから下って一つ一つの技を見極める方法も良いかと思います。どちらがよいと言うものではないと思います。
身を残す
心残すと
云はるるも
まこと残すは
真のみと識れ
平成癸巳二十五年正月十日
不動庵 碧洲齋