不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

5年ぐらい前のこと

今からちょうど5年前頃は人生でも最悪の精神状態でした。

父が他界して、仕事に行き詰まり、武芸に行き詰まり、まあそれ以外にも一つ二つ(苦笑)。当時は本気で自殺未遂まで行きました。

よくメディアでは「そんなことぐらいで死ななくてもいいのに」と思ったりしますが、こればかりはそういう状況に追い詰められた人でないと分かりません。本当に何も見えず、精神がギシギシ音を立て、視覚が狭まるものです。そして自分で重厚だと信じて止まなかった精神の装甲が卵の殻のようにあっけなく、笑ってしまうほど簡単にぐしゃっと割れてしまいます。そして背中に気球がくくりつけられたかのように、自分の存在が軽くなります。結果、死ぬことが怖くなるものです。死ぬことに冷静になると言っていいかもしれません。

当時を思い返すと今でもどきっとしますが、今同じ状態に遭っても大したことはないでしょう。

そこで自ら命を絶ってしまうか否かはやはり運の良し悪しもあると、私は思います。

私の場合、私を真剣に気遣ってくれた息子がいて、非常によい友人たちがいて、素晴らしい師に出会えた。この三つがあったおかげで、ふつふつと煮えくりかえっている地獄の釜の底を覗いた程度で済みました。これらの人たちには今でも深く感謝しています。このときは芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を彷彿とさせます。自他なく、後先なく、とにかくすがる思いでいたためかどうか分かりませんが、前後を振り向く余裕もないほど無我夢中で糸を登り切り、結果、私は救われました。

以後5年間、私は武芸と共に今まで何となくやっていた禅を精力的に行いましたが、改めて自分自身の問題も分かってみると「何だこんな事だったのか」というもの。世の中で本当に悩まねばならないことは百の内幾つもないと聞いていましたが、まさにその通り。本当に人間は大したことでもないのでも、それが幾つも重なると死にたくなるモノだと思った次第。

私に対して悪意を持ったり虐げようとする邪心がある人がいても何のその。自分自身がしっかりしていれば、直接身体を害されない限りは大したことありません。

人によって色々原因は違うのでしょうが、私が思うに多分、多くはエゴとエゴのぶつかり合い、自我と自我がガリガリ、ゴリゴリと音を立て、きしませる様相が人の精神をむしばむのだと思います。無論、それに打ち勝ち、相手を抑圧し、制圧し、圧倒し、勝利することに喜びを感じる人もいます。まあ、ルールやマナーに則っていればそれもありかなとも思うのですが、世の中はそんなうまい話ばかりではありません。それらに狂気になる人も確かにいます。正確には相手とぶつかり、がりがりやらないと自分を認識できない人、と言うのでしょうか。そもそも自分を認識しようという試み自体、間違っていますが。

自我を持つ、自我がある、俺は私はという感覚をどれだけ消せるか、私が至った結論はそれでした。他の方のことは分かりませんが、私の場合はそれは正しいように思いました。自我を減らしていくと、逆にエゴをぶつけてくる人がよく見えます。私的に禅のおもしろさの一つは、エゴを消すほどに、エゴに固執する人がより鮮やかに見えてくることのように思います。もちろん、そういう人をもよりよい方向がどこにあるのか、我が身の実践を以て示してあげねばなりません。エゴを押しつけてくる相手を憎むようなヒマがある人はまだ、自分が消えていない証拠だと思います(笑)。まあ、言うは易しですけどね。

私は大病を患ったことはありませんでしたが、その時はまさに大病を患ったときと同じような効能があったと思います。そう思うとき、そんな艱難すらありがたく感じるものです。最近は本気でありがたいと感じてきました。そう思うとき、毎日の生活の中で遭遇する良いこと悪いこと、すべてが「ありがたい」のでしょう。自分がそれに巡り合わせる確率を考えると、やはり文字通り「有難い」という文字がぴったりです。

お金持ちになっておもしろおかしく生活したいという人には私の人生はあり得ないのが正しいのであれば、厳しい修行を死ぬまで続け、道の先にあるものを知ろうと思う人が毎日がお気楽で安逸な生活はあり得ないというのもまさに真理です。

ちゃんと道を行こうと思う人には神様は正しい道を歩ませてくれる、と、5年前を振り返り、そんな風に思うのでした。

平成二十五年正月二十三日

不動庵 碧洲齋