ずばり言うとうちの妻は掃除ができません。年末の大掃除は言うに及ばず、日常の掃除を全くといっていいほどしません。
結婚して2年ぐらいは、こんなにひどいものかと、怒りを込めて自分が掃除をしました。
その後2年ぐらいは、家で「やってやるんだぞ」という主導権を持つために、掃除をしました。
更にその後2年ぐらいは、失望のあまり掃除をしました。
その後、2年ぐらいは、無念無想で掃除をしました。
また2年すると、掃除も修行になると感じました。
最近は、家事はかなり無心に自然にできるようになり、またそういう修行ができることに、感謝の念が湧いてきました。
雑巾でキッチンやトイレや廊下、和室をごしごしやっていると無心になってきます。
最初のうちは「ろくに家事もしないくせに」とか恨み辛み念が湧いてきましたが、汚れがひどいとそういう雑念を湧かせるエネルギーが無駄に思えてきます。今に至ってはそれが普通になってきているので、別段想いも起こらずに家事をすることができるようになってきました。
実際、禅宗の僧堂では少ない食事で厳しい作務があり、修行僧はぎりぎりの状態で修行をします。師曰くそれが雑念を極限まで抑え、禅定に入りやすくするのだそうです。
そう考えると掃除を無心にすることも立派な修行と言えます。
本来私はかなり横着で怠惰な方です。
あれこれそうならないように周囲の環境や条件を作って、なんとか防いでいます。
そう考えると、もし私に愛情豊かでいつもほがらかにして楽しくうれしい言葉を投げかけ、そつなく家事をこなし、いつも夫を立ててくれるような妻だったら、間違いなく私は寸毫ほども奮起しなかったことでしょう。そんなに安逸な環境だったら苦しい思いなどもってのほか。想像するまでもなく何かを探す旅などしません。
自分が武芸や禅を以て道を歩もうと真摯に決めているからこそ、天は我に火宅しか与えないのかと、ふと年末に思いました。
武芸や禅の真理を突き詰めようとして、その最短距離を想えば、まさに火宅の状況下に我が身を放り込まれる必要があったのでしょう。天が我をそういう定めに(こういう言葉は嫌いですが)従って、放り込んだように思います。
ここ1年ぐらいは散らかっていたら、乱れていたらスッと無心で片付けられることが多くなってきました。
会社でも実践しています。
故にこういう修行環境にいられることに感謝こそすれ恨みはないはずです。
そう思えば我を良くも悪くも遇する人たちには等しく深く感謝の念を持つようになるというものです。
と、最近は思うのでした。
平成二十五年正月十二日
不動庵 碧洲齋