不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

私の教育方針について

1948年に国連で採択された世界人権宣言では、奴隷制について次のように宣言されています。

「何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。」

(第4条)

私は日頃、息子の教育にはなるべく関心を持っていますが、いわゆる学問と呼ばれる明快な領域は妻に任せるか、学校に任せています。教育環境レベルは何かと問題の多い日本ですが、それでも世界的に見たらトップレベルです。だから学問に関してはよほど道を外さない限りはあまり口を挟みません。

ちょっと一緒に考えてみて下さい。

ある村で男が殺されました。犯人は逃げました。男の息子は敵討ちに出ます。敵討ちの道中に船が遭難して死にそうになったとき、一人の男が助けてくれました。その男は父を殺した人でした。さて、息子は男を仇討ちにすべきでしょうか、許すべきでしょうか。

こういう問題をよく息子と考えます。ちなみにこれは、薩摩藩などで藩士の子供たちに施された教育の一環として出された命題です。

他には「神はいるのかいないのか、いるなら何故見えない?いないなら何故人は信じている?」「人の命とネズミの命重さは同じか違うのか?」「人はどうして悪いことが止められないのか?人は元々悪いの正しいのか?」などなど、私は小学校入学以前から、息子にこういう命題をバンバン突きつけてきました。もちろん一緒に考えますし、正直私にだって分かりません。

分からない問題を出し、共に悩む、これがミソです。数学みたいに答えがクリアーなのはだめです。紙に書ける答えではだめなのです。子供の脳裏、心にずっと、大人になるまで突き刺さったまま、取り除くことができない命題を与え続ける、これが私の教育方針の大前提です。大人になって、結婚して子供ができたら、あるいはポロリと抜けるのかも知れません。そんな簡単に抜ける棘は刺したりしません。逆にすぐ抜ける棘しか与えない親は本当に子供を愛しているのかと疑いたくなります。棘を刺さないヤツは親とも呼べません。

人の正義、志の在り方、こういう点にだけ熱心に取り組みます。学問をしたい、学問で何かしたいという欲求を生まれさせる根源はすべてここにあると、私は信じています。

「勉強しなさい」これは「パソコンを使いなさい」「鉛筆で書きなさい」という程度の意味しか持っていません。パソコンがうまく使えたり、字がうまく書けることはとてもよいことです。が、それはその目的からすれば実に些末でどうでもよい問題です。

昨日、テレビで「トムソーヤの冒険」をやっていました。その時の話しは脱走した南部の黒人奴隷を追っ手から隠し、逃がしてやるという話しでした。

人が人を売買するということがどれだけ非道なものか、教えました。息子は黒人差別についてよく話していたので、やはりこういうことには憤りを感じています。

人は外見で差別されるべきではない、それは言葉ではなく、私が実際に毎週末出会っている外国人たちを見て、息子は体験としてリアルに知っています。

そして人のみならず、森羅万象は等しく仏の在り方そのものだから、本来、差別などあろうはずもなし。仏が仏を差別するなどと言うのは笑ってしまう程の愚かな行状だということも息子はよく理解していました。

仏は万物を理解させてくれる、本当にありがたいものです。

子供に対してはもっと分からない教育、答えのない教育、一緒に考える教育を心掛けてみませんか?

平成二十四年師走三日

不動庵 碧洲齋