世に「人の道」という言葉がある。ならば犬や猿、猫や豚にも道があろうというもの。が、現実に道があるのは人だけだ。「犬道」「猿道」「猫道」などということばは寡聞にして聞かない。
犬や猫はその生き様そのものが道であり、そこから外れることがない、というより、そこから外れることができない。
世界に在って人のみが、ある意味、自らの道を客観的に観ることができる、つまり自らの意志で道を外れることができる、不思議な生き物でもある。
子曰、
吾十有五而志于学、
三十而立。
四十而不惑、
五十而知天命。
六十而耳順、
七十而従心所欲不踰矩。
子曰く、
吾十有五にして学に志し、
三十にして立つ。
四十にして惑はず、
五十にして天命を知る。
六十にして耳順ふ。
七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず、と。
かの孔子ですら、70歳になって初めて、畜生たちが自然踏み越えないでいられる境地に達したと言っている。
況んや我ら凡俗の徒をや、である。それまで我ら凡俗は細い人道を踏み外さずまいかと気を揉みつつ歩む。
人の道、人道とは何とも不思議な言葉だが、辞書にはちゃんと載っている。
曰く「人として守り行うべき道」と。(大辞泉)
枝葉末端においては時代ごとに変わったこともあったろうが、根幹は文字で記録が残されるようになってから変わることはなかった。
「殺すなかれ、傷つけるなかれ、盗むなかれ、」
傷つけるなかれ、人の精神活動が活発化してきてからは、肉体のみならず、名誉や誇り、伝統や栄光など精神的なものにも言及されることしばしばだが、そんな大仰なものでなくとも個々で心の奥底に在って珠玉のように守っているものを傷つけることも、人として人倫に悖るとされている。
何故人倫に外れることをしてしまうのか。
他の動物は、生まれたときからその動物以外の生き方ができない。
猫は生まれたときから猫としてプログラムされており、犬になることができない。プログラムと言うよりはOSが猫専用となっている。
しかし人間は生まれてきたときは、いわゆる初期化された常態で、OSすらインストールされていない。人以外が赤子を育てたら人でなくなる可能性が多分にある。それが人が他の動物と違う点でもある。
いつからそんなことになってしまったのか分からない。
聖書の創世記にあるアダムとイブのくだり、男女あることを認識してしまったこと、裸でいることを認識してしまったこと、自分と神あることを認識してしまったこと、何を食ってそうなったのか分からないが、これが書かれたときにはすでに今と変わらぬ人のみが見える、人道故の人の苦しみがあったに違いないと察する。
悲しいかな、人道は決して歩きやすいとは言い難いにもかかわらず、逸してしまったら「はいそうですか」では済まされないのが人の世。人倫を踏みにじる行為は能力のあるなしとは違う次元の嫌悪感をもたらす。
人の道とは険しくもあり狭くもあるが、さりとて自らの意志で守らねば人ならず。
難しい命題だと思う今日この頃。
平成二十四年師走二十三日
不動庵 碧洲齋