そういえば13年前までもノストラダムスの大予言が大ブームでした。
結局何でもなかった。
(ま、その年の終わりに母が他界しましたが)
個人でも民族でも、自殺願望とか自滅願望が潜在意識的にあるのだそうです。
それはよく分かる。
あと1.2世紀後ならあるいは月や火星に避難できるのでしょうが、現代の科学ではそれはとてもムリ。
人類最後の日が来るのであれは、人類にはたった二つしか道は残されていない。
一つは終焉に際して嘆き苦しみ、自暴自棄になる。
そしてもう一つは終わりを善くする。有終の美を飾るか。
ま、終わった後に誰かが見届けてくれるわけではありませんが。
「最初だから」「最後だから」などと呑気に言っている人は多分前者でしょう。
私たちの本当の意味での最初はこの世に生まれ落ちたとき、最後は死ぬとき。
そして私たちはいつ死ぬか分からない。
だから毎日を今日が人類最後の日だと思えばどれだけ真剣に、博愛精神を持って、感謝と共に生きられることか。
(言っておきながら、私もなかなかそうできませんが)
多分ですが、毎日ギリギリ最大限、精一杯真剣に生きている人にとって、明日の世界最後の日などは大した問題ではないと思うのだと思います。
いつだったか、母に聞いたことがあります。
東京タワーができたとき、首都高速ができたとき、どんなことを想った?という問いでしたが、母は戸惑い気味に、毎日毎日一生懸命に働いていたから、そういうことには気を回していられなかった。子供の頃に水遊びした隅田川がいつの間にかコンクリートの堤防に囲われてしまったことすら、しばらく気付かなかった。
このくらい懸命に生きていた人にとって、今日の人類最後の日はあまり重要な問題ではないのかも知れません。
逆に言えば、人類最後の日を思い煩っている人は、毎日毎日を真剣に生きていない人だと言えます。
かもしれない、ことを気にするヒマがあったら、今していることを気にかけるべし。
そんなことを想いながら日々を生きています。
平成二十四年師走二十一日
不動庵 碧洲齋