不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

できることなら私こそ救われたい(苦笑)

朝っぱらから某国同門武友から、少々深刻ではないかと思われるメールが来たので、速攻でささっと返信を書き、送り返しました。

しかし送信してから見返すと、無心で書いたためか、駄文が多い中では多少なりとも得心がいった文面だったので、ちょっと嬉しくなり、和訳しました。

随分とエラそうなことを列挙してますが、70%ぐらいは老師からの受け売りです。決して私の言葉ではありません。もっと修行を重ねて歳を取り、自分の奥底からこういう事が言えるようになりたいところです。

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こんにちは○○さん

手紙をありがとう。

最近私は多忙を極めているので不動寺には行っていません。来春にでも行きたいと思っています。

ところで、あなたは食べ物を残したことがありますか?

私たちがまずさのあまり食べ物を残してしまうとき、それはより美味しい食べ物があることを知っているからです。

その時、私たちは相対的視点で比べています。

私たちは比較無しでひとつの食べ物を食べるとき、そこには他の全てに対する感謝があることでしょう。

その時、私たちは絶対的視点で比べています。

それは私たちの人生にも言えると思います。

いい人生ではないことを苦に貴重な人生を棄ててしまうとき、私たちはより素晴らしい人生を送っている他の人を知っています。

その時、私たちは相対的視点で比べています。

どんな比較もなく、与えられた人生を専一に生きている時、多分、私たちは誰に対しても感謝が湧いてくることでしょう。

その時、私たちは絶対的視点で比べていると思います。

自殺というものは自他を比べてしまったときに起きるものだと思います。

考えてもみてください。宇宙開闢から終焉に至るまで、我々という存在はたった一度だけの存在です。

一体何のために?

比較対象にされるためだけの存在として?

幻想するためだけの存在として?

仮想されるためだけの存在として?

いいえ、私はそう思いません。

私たちは各々の人生を完全に味わい尽さねばならないと思います。

その味わい尽くした中にこそ答えがあるのではないかと思っています。

(そうせずに、他を羨むことに終始して終わってしまう人生が如何に多いことか!)

人生の難しさや苦難そのものは苦悩の本当の理由ではないと考えます。

多くの人にとって、その妄想的な比較を止められないことに苦悩があるのだと思います。

多くの人は妄想的な比較を止められないから苦悩しています。

多くの人は幻想的な妄想を止められないから苦悩しています。

金持ちの碧洲齋、豪華な碧洲齋、これらは完全に妄想です。

いつまでたっても禅の命題にウジウジ苦しんでいる碧洲齋、武芸の道で右往左往している碧洲齋。これが本当の私です。そして私は周囲への感謝を込めてその苦い人生を完全に味わおうと努力しているつもりです。

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彼が多少なりともこれが励みになってくれればと思った次第です。

平成二十四年師走十日

不動庵 碧洲齋