不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

学問について

若い頃に学問をしておけばよかった。

人の一生は勉強である。

これを後悔と取るのか、動機と取るのか、人によって様々ですが、私はともかく人は死ぬまで学び続けなければならないと思っている質です。高校生ぐらいまでは学校の勉強には熱心ではありませんでした。必死にやったのは中国思想や武道関係、やむにやまれずやった英語ぐらい。むろんそれらは今に至っても我が身を助けてはいますが、当時は死ぬほど嫌いだった数学も、最近はにわかに興味を持ちはじめた次第。

妻とはあまりよい仲ではありませんが、それでも敬意を持っている部分があります。それは常に何を学習をしていること。それがために常に攻撃的で突っかかってきて、けんかを売られることがいつも苦になっていて、そういう意味においては家庭は無条件で楽しいところではないというのが正直な感想ですが、それがいやだとか苦しいとか逃げ出したいというわけでもありません。それは私も死ぬまで修行をしようと思い立った類の人間だからです(多分そうだと思います)。

妻もそういうにおいを嗅ぎ取って(というかそれを知っていて結婚したのだろうが、とツッコミもありますが)、自分と競り合っている身近な人間を攻撃(もしくは口撃)するのだと思います。家でも安寧でいるな、最近はそれも天声かなと思うことしばしば。私は根が安逸な人間なので、徹底してそういう姿勢は嫌いですが、さりとて否定したり拒否しようとも思いません。それはそのままその姿。そういうことばかりしている人の心映えはその人だけのもの。私はその荒波をうまく利用させていただいております。そういう意味ではありがたいとも思っています。運命とか宿命は信じませんが、私の場合はたぶん、死ぬまで修行でもしておれ、という宿命なのだろうと想像し、あきらめています。

ここ最近はロシア語にはまっています。たぶん10年近くかかるでしょうが、50歳ぐらいまでにはものにしたいところ。当流に外国人が多く、やむなく泣き泣きやったという私の英語学習歴ですが、ロシア語は純粋に好きでやっています。仕事や家事、稽古でなかなか時間が取れないと余計に火が付きます。

学問を生涯続けることはアジア人としては孔子の教え以来、特に日本では一農民にすら浸透している思想でもあります。こればかりは日本の誇りです。ネットでたくさん過激なことを語るのもいいですが、同じぐらい実行が伴って欲しいところ。そうしたらなかなかの名実ともなった文化大国であることでしょう。

品格という言葉があります。どなただったか、格は1代、お金でも買えますが、品は3代かかると言っていました。先の大戦で母方の祖母は夫を亡くし、私が5歳の頃ガンにかかりました。他界する1.2ヶ月前に母に英語の勉強道具を買うように言いつけたそうです。英語を学べば世界中の人と話し合うことができる。そうすれば自分のように悲惨な遺族を減らすことができる、そういう信念だったそうです。母も私が当流に入門してから英会話学校などに行き、少しずつ学びました。そして私は今、まさにごく普通に世界中の外国人と語っています。ここまで3代かかりました。私は勝手に自分の英語はつたなくとも3代かかった品の英語だと思っています。私だけが努力してここまで来たのではないといつも肝に銘じています。祖母の心、母の心が脈々と私に続き、そうさせていると思うと、うかつで薄っぺらなことはとても言えません(結構言ってますが・・・)。意味のないことを機関銃のようにぺらぺら英語で話すことは私の役目ではありません。たぶんこれからも日本の素晴らしさを以て世界平和に僅かながら役立てたいところです。

今、宇宙飛行士は英語の他、主にロシア語が必要とされています。ロシアは宇宙開発大国だからです。中国も非常な勢いで開発してますが、あの国はまず、宇宙開発大国にはならないと思うのです。私はロシア語を勉強しています。そして息子はかなり本気で宇宙飛行士になりたいと言っています。偶然?いやそうかもしれませんが、そういう蓋然性もあるのだと思います。息子の子供、私の孫はたぶん、ごく普通に宇宙に行っているのだと思います。むろん、息子も努力すれば宇宙に行くことはかなうでしょう。正しい目でものをみると、割に当たり前のことが見えてくるのかなと、ふと思いました。

自分の下地になっている先祖の思いをどう表現するか、もしかしたら今の世の中そういう視点に欠けている人が多いから自殺者が出たり、えげつない事件が起きたりしているようにも思います。今一度、今自分がこの世にある事実に思いを馳せて、自らの役割を考えて欲しいと思います。

平成二十四年霜月十日

不動庵 碧洲齋