不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

三合五勺の病気に八石五斗の気の病

幸いにも私は生まれてから43年間、大事故や大病を患ったことがありません。

一番の大事故は留学中、降雪時に後ろからトレーラーに追突され、頭をドアの角にぶつけ、4.5針程度縫ったこと、大病は2.3年前に尿道結石の疑いで病院で初めて点滴を短時間受けたこと。このくらいではないでしょうか。

なので、大病もしくは身体機能の一部を失った方にあまり偉そうなことは言えないのですが、ふと思ったことなど。

「三合五勺の病気に八石五斗の気の病」という言葉を残したのはかの白隠禅師。臨済宗中興の祖、江戸時代の方です。白隠禅師も精神的な病に冒されていましたが、後日仙人から回復する方法を伝授され、みごとに立ち直りました。この言葉の意味を簡単に訳すと「半リットルの病気という入れ物に、150リットルもの気の煩いを入れるようなもの」といった感じでしょうか。例えば事故で右手を失ったら、右手を失った以上ではないのに、「もし事故に遭わなかっタラ」「今頃事後に遭わなけレバ」「あそこに行かなければ事故に遭わなかったカモ」などなど、仮想、空想、妄想、夢想、幻想を現実に踏み固められたかのような土台にして、そこにやはり仮想、空想、妄想、夢想、幻想の家、庭をはじめ、それらの街を造りあげてしまいます。

タラ・レバ・カモは人間が他の動物と違い、言語と現実のギャップに苦まねばならない唯一の生き物である証左でもあります。

例えば究極的な武芸の仕合ではその仮想、空想、妄想、夢想、幻想をギリギリまで削ります。その事実だけを見据えられた者と、僅かでも仮想、空想、妄想、夢想、幻想を加味してしまった者との僅差が勝敗を決めるのではないかと思っています。無論、それに至るまでは相手を予想したりする行程も経ることも必要ですが、ここ数年、要らぬ想念を徹底的に削り、その事実だけを見据えて、仕合うことが勝機だと感じるようになりました。

武芸ではなく、日常生活でも仮想、空想、妄想、夢想、幻想を暴走させてしまうが故に私たちはつまらないことにもつまずき、ちょっとした風邪でも明日死ぬかのような錯覚に陥ったり、もう少しスケールアップして受験に失敗したら人生が断絶してしまったような妄想に陥ったりします。私の場合はたまたま禅の修行に打ち込むことによって、そういった非リア想の手綱を引き締めています。ま、楽ではないですけどね。

これらが騒ぎ暴れないと、人生はこんなにも違うのかと、よく驚かされます。心労が減ることぐらいいいことはありません。心労は間違いなく人の寿命を短くすると思います。翻ってみれば今の世の中、インターネットの世界はほぼ完璧に仮想世界です。確かにモノを注文すればそれが届くのでリアルだと思いますが、その途中経過が全部仮想ですからやはり仮想世界です。そして頻繁に自分が自分であることをいちいち証明しなければならない場面が多すぎます。前にも書きましたが、自分を認識させることぐらいよくないことはありません。

これでは精神的な病になる人が増えて然りだと思います。

うちで飼っているハムスターが先日、怪我をして多分左後ろ足を骨折しました。多分、死ぬまでびっこを引いていると思います。彼はどう思っているでしょうか?私はハムスターではありませんが、彼は多分、タラレバカモの存在しない思考形態を有していて、その中で生きていると思います。タラレバカモがなければ不平不満がありません。不自由に感じたときは「困った」美味しいエサを与えられたら「嬉しい」眠いときは眠る。これだけだと思います。このシンプルさが究極の自然体だと思います。

障害を持つアスリートや有名人たちを見ていると、やはりこれら「タラレバカモ」をほとんど持ちあわせていない気がします。

あ、話しはこれで終わりではありません。

では何でよりによって人間だけが、要らぬ想念と双子のように道を歩んでいるのか、考えていました。私の禅の師匠の師匠は昔、「地球に人間さえいなければ、地球は本当に全てうまく丸く収まるのになぁ」と言っていたそうです。これはまともな神経をした人なら誰でもそう思うでしょう。地球にとって、人間ぐらい邪悪な生き物はいません。私が神様だったら、聖書の神話よりもサラッと人類を排除したかも知れません。

が、現実には人間はしぶとく生存していて、毎日毎日コマッタちゃんなのです。

なぜでしょう・・・。

私は人間のみが持つ、その想念を他の生き物に振り向けたときにのみ、神性が発揮されると思っています。うちのハムスターが自分の脚を不自由にしても、それはそのまま、その通りだとしても、それに対して人が慈悲を感じたり、労りを感じたりすることが神聖なものなのではないかと思った次第です。そういうシチュエーションにのみ「想ファミリー」が出動して、適切な機能が果たせれば、それは素晴らしいことではないかと思った次第。もちろん、他の生き物のみならず、同じ人間に振り向けても同じ意味です。基督教ではそれを「愛」とか言っているのかも知れません。

そう考えると、日頃多くの人々が辛苦にしている心身の問題は本来、他の誰かに差し向けるべきプラスの感情を、誤用しているのではないかと思います。感情を正しく使う、快適に使う、難しいところですが、これが本来の在り方ではないかと思います。それを阻んでいるのが俺が俺がの自我地獄。何度戒めても戒めきれない、切っても切れない関係の、永遠のライバルってところでしょうか。

ガンバの足は爪楊枝のように細いですが、多くを気付かせてくれました。足が不自由でも皆を癒してくれる可愛い家族です。大切にしていきたいと思います。

平成二十四年霜月二十八日

不動庵 碧洲齋