不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

ガンダーラと中国と玄奘三蔵と 2

かの玄奘三蔵の遺骨が奉安してあるのは現在の埼玉県さいたま市岩槻区にある天台宗慈恩寺

よりによって玄奘三蔵の遺骨が埼玉県にあるという現実には少々おかしさを感じずにはいられません。

かねてから息子にははるばる中国からインドまで10数年も費やして旅をして、ありがたいお経や仏教の知識を持ち帰ってきた玄奘三蔵の遺徳を話しています。

これから西遊記の話しも知るようになるでしょう。そのときに三蔵法師をよく知っておくことは彼にとって一層、魂に響く経験となると思います。

玄奘三蔵の意向が奉安されている場所は実は慈恩寺の境内ではなく、少し離れたところ。

慈恩寺から歩くとたぶん20分はかかるでしょうか。車だと5分もかかりません。

墓所には数台の駐車スペースもあります。

入口の門は中国風になっていて、「玄奘塔」という額が掲げられています。

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敷地は広く、向かって左側には縁起担ぎでしょうか、大きな石造りの亀があったり(登れます)、池があったり。今の時期はきれいな彼岸花が咲いていました。あいにく天気が悪かったので赤があまり映えていませんでした。

また、同じく左側には非常に大きな松の大樹が2本そびえています。見事な大きさです。

右側には桜の木があり、隣接して芸術家関係の方の工房があります。昔風の作りなので、なかなかおもしろいです。

今回は主らしき人はいたのですが、時間がなかったので声はかけませんでしたが、今度ゆっくりと話してみたいところです。

正面に13層の非常に高い石塔があります。そのすぐ左正面に玄奘三蔵銅像が建っています。インドからの帰路の姿でしょうか、膨大な数の教典を背負って、その上に編み笠を付け、左手にはさらに1巻の教典、右手には払子を手にしています。なかなか見事なできばえです。

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正面には屋根があり、線香とろうそくを買うことができます。お金を多めに入れて線香の束とろうそくを買い、ろうそくで火を付けた後、ろうそくはガラスケース入りの燭台に置き、線香は大きな土香炉?に立てました。

予め買っておいたお茶と月餅、草餅をお供えして、息子と二人で般若心経を一心に読経しました。

不思議な感じです。1000年以上も前にインドから持ち帰り、翻訳した方の墓所の前で私が彼のためにその訳したお経を読んでいる。

息子は何を想っていたのか、今までないくらいに真剣に手を合わせていました。

読経した後、銅像の前にたたずみました。

「こんな大きな荷物を持ってインドから帰ってきたのか・・・でも三蔵法師ははじめから仏様を分かっていたんだよね。分かっていたから持って帰ってきたんだよね」

毎回息子にはしてやられます。お経というものはいわば心の設計図、心の仕様書のようなものだと禅宗では定義しているようですが、息子はそれを知って言ったのだと思います。

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実はこの玄奘塔の背後には一つのお地蔵様が安置されています。

名前は「ともちゃん地蔵」

近くにはその地蔵が安置されたいきさつが記された碑があります。

せっかくなので紹介します。

ともちゃん地蔵

ともちゃんは

夕方になると

難民収容所の隅っこの

お母さんのお墓の前で

小さな手を合わせます

ズボンをちょっと下げ

上着をまくりあげ

おへそを眺めます

「お母さんに会いたいときは

おへそを見なさい

きっとお母さんの顔が

見えるでしょう」

お母さんは死の床で

そう言いました

寒さが収容所を襲うと

弱い者から命を奪われます

ともちゃんも

仲間のお兄さん達も

身体をくの字に曲げて

おへそを眺めながら

死んでいきました

遠い昔中国の北の街に

そんな子供達がいたことを

忘れないでください

二度とこんな悲しみを

子供達に

負わせないでください

2001年2月5日

紅梅の会

村上米子

ネットで調べると、紅梅の会とは中国帰国者の互助団体のようです。

何でお臍なのか分かりませんが、想像するに本当に痛ましい死に方です。

お地蔵様の周囲には花やお菓子、ジュースはもちろんのこと、おもちゃも置かれていました。

そのときなぜかふと思い出しました。

あのテレビドラマ「西遊記」は日中平和友好条約が調印された年で、1978年でした。

私はそのとき9歳、息子と同じ歳でした。

息子は黙って碑の文を読み、何か思い詰めたようにお供え物を眺め、手を合わせていました。

息子も臍を見つめながら死ぬという光景に、ショックを隠しきれない様子でした。

塔の周りをぐるっと回り、車に戻ると数珠が見あたりません。

さっきまで手にしていたのですが・・・。

もしかしたら読経した場所にあるのではないかと思い、息子を車に残してもう一度その辺りを探しましたが見あたりません。

稽古の時間も差し迫ってきているので、あきらめ、車に戻りました。

車に戻ると息子が言いにくそうに。

「ちょっとさあ、ともちゃん地蔵のところに行ってきていい?」

と私に尋ねてきました。

「どうして?」

息子は今日、私が稽古をしているときに遊ぶつもりで持ってきたおもちゃ(ボールからロボットに変形する)を見せ、

「これともちゃん地蔵に置いてきてあげるんだよ。」

と言いました。

「お前、えらいな。じゃあ一緒に行こうか。」

また、二人で石塔の裏にあるともちゃん地蔵に行き、息子はおもちゃを並べ、手を合わせました。

手を合わせながら息子がぽつりと「本当に悲しいよね。お臍を見ながら死んでいくなんてさみし過ぎるよね。」と言いました。

我が子のことながら、思わず私は息子の背中に手を合わせてしまいました。

この慈悲深さはきっと、御仏のご加護がある証しだと思いました。

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また、過日、師がおっしゃっていた「塩は日本人がなめても中国人がなめても塩辛い、そういう見方で今の日中関係を解決できないものだろうか・・・」という意味がリアルに分かった気がしました。たぶん、この息子の言葉がまさにそれではないかと思った次第です。

「ともちゃんや他の子供達もきっと喜んでいるよ」

「うん、そうだね、仏様になってみんな幸せになっているんだよね」

ウソみたいな話しですが、後ろを振り返ってふと地面を見ると、そこに数珠が落ちていました。

ここに来たときに見えていたはずですが、振り返るまで全く気付きませんでした。

あまりにうまくできすぎた状況に、二人ともしばらく固まりました。

重ねて言いますが、作り話ではありません。

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拾う前にカメラに収めました。

それを拾って立ち上がったとき、少し遠くに見える玄奘三蔵銅像の後ろ姿が目に入りました。

うまく言えないのですが、この偶然に何とも言えない尊さを感じました。

一瞬だけ、玄奘三蔵がはるばる旅をした理由を垣間見た気がしました。私は自然と後ろ姿に手を合わせてしまいました。

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またぐるりと塔を回り正面に戻ると、息子が驚いた声を上げました。

「あ!タンポポが咲いてる!」

季節的に黄色い別の花だろうと思い、息子が指し示す方を見ると、間違いなく緑一面の地面にたった1輪だけタンポポがポツンと咲いていました。

息子は興奮気味に、

「これさあ、きっと仏様がありがとうって咲かしてくれたんだよ。」

と自分で納得させるように言いました。

「そうだな、きっとお前の慈悲深さを喜んだ仏様がお前のために咲かしてくれたんだよな。」

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この日は私が9歳だった頃に比べて、息子が非常に高邁な精神を持っていることに驚き、満足しました。

また、この慈悲深さはきっと、自身を助けると思います。

大した親でもないのに、ここまでよくできた息子はやはり天からの預かりものだと思わずにはいられません。

だからこの大切な預かりものは、成人するまでは子供の教育に力が及ぶ限り微力を尽くしたいと思います。

ああ、これはたぶん、仏様から私への誕生日プレゼントだとも思いました。

今までで最高の贈り物を頂いた気分でした。

平成二十四年神無月七日

不動庵 碧洲齋