不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

白隠禅師の「内観の法」

昨夜はたまたま、寝る前に久しぶりに白隠の内観法をやりました。

おかげさまで今朝はここ数週間ない程、頭がギンギンに冴えまくっていました。

冴えを維持するためにまたしばらく、継続してみようと思った次第。

これはどんなものかというと、一種の健康法で、心と体と両方に効果があるとされています。

白隠禅師が広めたものですが、彼自身はどこぞの仙人みたいな方から教えて頂いたそうです。

個人的には父の急逝と失業と武芸の行き詰まり、更にプラスアルファの精神的打撃で完璧な程に打ちのめされ、人生で初めて自殺しかけました。この時初めて、長年武芸で養った精神力なんて大したことないなと素直に感じたものです。そんな折、知った方法です。

実はこの方法がどれほど効果あるのか分かりません。時を同じくして私は本格的に禅を行じるようになったので、相乗効果なのかも知れません。また、方法としては現代的でない文字言句があるので人によってはなじみがないかも知れませんが、思い返せばなかなか効果があったように感じました。

以後、時折、問題事が多くて寝付けないときに内観法を行じました。最近は図太くなったのか、滅多にやりませんが、よく眠れるのと寝起きがかなりよいように感じるので、そうしたい時はやります。これは本当は継続してやるともっとよいのですが、私が初めて行ったときは取りあえず3ヶ月程でした。禅との相乗効果もあったのでしょうけど、ドン底からは脱出できました。多分、効果はあったのでしょうね。

よかったら少し紹介しますので、やってみてください。他にもっと詳しく説明されたサイトもあるようですが、ここでは私なりにアレンジしています。

・布団に入る。私はしませんが、重症であれば下着一枚とか素っ裸がいいのかも知れません。

・就寝直前に深酒とか熱すぎる風呂には入らない方が良いかも知れません。

・極力、嫌なことは忘れ去ります。忘れ去るように努力しましょう。

・一応、この方法は(ある程度)効果があるのだ、と信じてください(笑)。信じる者は救われる、というヤツです。

・全身はリラックスしながら、脚を揃えます。多分、だらっとしないという意味です。つま先をキチッと上に向かせるとよいかも知れません。

・足の裏に鼻が付いていて、そこから呼吸するするようなイメージを持ちます。

・意識は丹田に集中します。丹田は一般的には臍のちょっと下と言われますが、個人差があるので、その辺りに意識して、暖かく感じたところが丹田だと思ってください。

・雑念やもやもやが消せなくても結構なので、以下の言葉を頭の中で行じます。

我がこの気海丹田腰脚足心、まさに是れ本来の面目、面目何の鼻孔かある。

「わがこのきかいたんでんようきゃくそくしん、まさにこれほんらいのめんもく、めんもくなんのびくうかある。」

意味:自分の丹田、腰、脚、足、心こそ本来の自分だ、本来の自分に鼻の穴などいるものか。

我がこの気海丹田(腰脚足心)、まさに是れ我が本分の家郷、家郷何の消息かある。

「わがこのきかいたんでん(ようきゃくそくしん)、まさにこれわがほんぶんのかきょう、かきょうなんのしょうそくかある。」

意味:自分の丹田(腰、脚、足、心)こそ私の本当の故郷だ。本来の故郷にいて消息など尋ねるものか。

我がこの気海丹田(腰脚足心)、まさに是れ我が唯心の浄土、浄土何の荘厳かある。

「わがこのきかいたんでん(ようきゃくそくしん)、まさにこれわがゆいしんのじょうど、じょうどなんのしょうごんかある。」

意味:自分の丹田(腰、脚、足、心)こそ私の唯ひとつの浄土だ。本来の浄土に何を飾り付けようとするのか。

我がこの気海丹田(腰脚足心)、まさに是れ我が己心の弥陀、弥陀何の法をか説く。

「わがこのきかいたんでん(ようきゃくそくしん)、まさにこれわがこしんのみだ、みだなんのほうをかとく。)

意味:自分の丹田(腰、脚、足、心)こそ私の心にある阿弥陀如来だ。本来の阿弥陀如来に何の説法をするのか。

括弧はオリジナルの文句にはないのですが、私個人としては全部揃っていた方が心で呟きやすいので、言っています。要するにアタマに気が上がってしまった状態を、なるべく下に持っていくという事が肝要なようです。

丹田呼吸と言うぐらいですから、やはりここは心を持ってくるには好都合の場所なのだと思います。実際に武芸をしていてもそう感じます。

嫌なことなどはなかなか忘れがたく、頭から離れませんが、慣れない内はこの文句を唱えるのに集中するので、頭の中で唱えている間は多分忘れます(笑)。文句は古い言い方なのでなかなか覚えにくいかも知れませんが、結構早く覚えられます。今、手元に書籍がないのですが、覚えにくい場合はもう少し短くできたと思います。ただ内容的になかなか優れていて、せっかくなので覚えてみてください。

覚えるとお経のように空で唱えることができます。

空で唱えられるようになったら、改めてその意義を感じるとよいかも知れません。

脳みそではなく、腹で考えろ、みたいな?

知識ではなく智慧を磨け、とか?

脳の機能とは別のところで考えるような気分で文句について省察するとよいかも知れません。

慣れてくると不思議なもので、短い回数を心中で唱えるだけで寝付いてしまいます。

眠りに落ちる瞬間が自覚できることもよくあります。

細かく言うと、唱えている内に順番のど忘れが始まります。それは眠くなってきている証拠です。取りあえずなるべく正しい順序で唱えましょう。

私の場合ですが、ここ最近では10回唱えられたことがありません。多分ですが、3-5回、多くても7回ぐらいでしょうか。その間に眠りに落ちます。

個人的な感想ですが、悩みが深かったり長かったりする程、眠りに落ちる瞬間がハッキリ来ます。

そして朝、かなりの確率でパッチリ起きることができます。

寝ぼけている時間が短いというのでしょうか。

場合に因りますが、眼が醒めるとほぼ同時に眠さが消失します。

すぐにそんな風になる訳ではありませんが、割にたやすくそこまでできるようになったように思います。

この健康法のメカニズムですが、私の個人的感想を元に述べてみます。

悩み事の大半は頭で考えてもどうにもならないことばかりです。

逆に頭で考えてどうにかなることは全く大した問題ではないことが大半です。

ハッキリ言えば行動すれば少しはどうにかなることがほとんどです。

更に言えば行動してもどうにもならないことは本当にどうにもならないのです。

お金の問題、お金が欲しい、もっと稼ぎたい。

最初から心身の労せず楽に稼げる方法なんてありません。

逆に心身を磨り潰して破滅寸前まで働いて得た額が稼げる限界。

そして破滅にならず、なるべく効率よく稼ぐ方法はほとんどの場合明確に分かっています。

(大学を出るとか専門知識を得るとか成績を上げるとか、かなり明瞭です)

これらは皆、論理的にはよ~く理解し、多分納得もしていることです。

要は頭で考えても1ミリも動きはしないことに頭を使う内に疲労困憊してしまうことです。

ちなみに脳は小さいながらこれはなかなかエネルギーを使う器官らしく、同じ質量の筋肉に比べて数倍ものエネルギーを消費しますから、要らぬ事、不愉快なことでフルパワーにしたらたまったものではありません。

単純に心がだだをこねているだけです。しかし心は元々考える為ではありませんから、脳みそが心の気分がよくなるような結論を出さなかったからと言って、代わりに心がモノを考え出し始めるともっと具合が悪くなります。多分、ここら辺が最近の人たちに多い、心の病なのではないかなと思います。無論、頭も心も鍛え方が足りないというのもあると思います。

白隠禅師の内観法は多分、本来あるべき脳の機能を十全に生かすために心と切り離す作用があるように思います。仕事や日々の決断事項はやはり脳の性能がモノを言います。心でどうにかなるものではありません。逆に心でないとうまく解決できない場合もあります。無論、どちらか片一方だけで解決できるケースは少ないのでしょうが、多分、そのさじ加減がうまく行かない人程、心の病が深刻なのだと思います。

だから白隠禅師の内観法では心を身体のずっと下、丹田に持っていき、呼吸すら足の裏から行わせて頭に刺激を持って行かせません。頭の機能と心を可能な限り切り離します。

故に安眠できたり、目覚めが爽やかだったりするのではないかと思います。

心身が整い、その時その時しなくてはならないことに集中できれば必然的に成果も上がるというものです。

嫌な人が会社にいる。そいつをあの手この手を使って逆襲を試みようとするのは脳の機能です。あるいはそいつを力や権力、知恵を使って思い通りにさせるのも脳から発する衝動です。いい部分もある、相手に合わせて身分を変化させる、これは多分に心の機能ではないかと思います。基本的に心は違いよりも同じ、闘争よりも調和を好みます。仏心仏性もそういうものです、多分。私が知っている人の中にも年中、相手の振舞や言動からケチを付ける材料を鵜の目鷹の目で漁るような人がいますが、これはその人の脳の機能が間違った方向に使われているのだと思います。本来は互いの相違を取り払い、同じものであることを確認するのが正しい方向だと思うのですが。アメリカのある宇宙飛行士が言っていました、「違いというものはローカルなものに過ぎない。宇宙に出ると本質的にはみな同じなのだと気付かされる。」。これはなかなかうまく仏を言い表しているように思います。

長くなってしまいましたが、心身共に疲れていたら、ちょっと試してみてください。もしかしたら効果があるかも知れません。

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平成二十四年長月二十六日

不動庵 碧洲齋