忍者の空絵事ではなく、本当に人が消えることができる瞬間は確かにあります。
それは自我を消失したとき。エゴをなくしたとき。
そういう瞬間、人は相当強い存在になれると信じています。
無心で他人に尽すことや、無償の愛を人に施すという言い方をしますが、もっと簡単に。
例えば小さな子供が屈強な暴漢10人に囲まれて危険に晒されていたとします。
母親はとっさに助けに行きます。
その時の母親は確かに消えていると思います。
相手を全員倒せると思っているでしょうか?
子供を無事に助けられると思っているでしょうか?
自分の命の心配をするでしょうか?
怖いと思うでしょうか?
どうやって戦おうと考えるでしょうか?
何も考えないで、スッと(もしくは無我夢中で)その状況に入り込むと思います。
その状況になり尽す、その状況に成り潰すと思います。
こういう瞬間が「消える」のだと思います。
そしてその「消える」範囲が広い人程、愛情が深いとか自我がないとか言われます。
そう考えると母の愛のいと素晴らしきことでしょうか。
母親は子供が立派な大人になって、その子がいい大人になり子を儲け、自分が老いて棺桶に入るその瞬間まで、子供に対してそういう気概を持ち続けているものだと思います。
やはり親は偉大です。自分もそうでありたいと常々思います。
話が逸れました。ちょっと人のいい方だったら、他人の子供の場合でも同じ行動をするでしょうし、もっと人が良かったら全然関係ない大人でも無心に助けてしまいます。
つまり誰も消えることができるのだと思います。
自我があったらそういうことはできません。
損益を考え、理論を考え、筋道を考えてしまいます。
無心で行動する人は絶対的視点で行動します。
そうでない人は相対的視点で考えてから行動します。
相対的視点での行為は常に自分ではどうにもならない割合が半分はあるので、そこが悩みの種になります。
自分が正論を述べて正しいことをしても、相手がその通りになるかどうか分かりません。
その通りになっても、相手の心まで従えたかどうか分かりません。
赤ん坊や小さい子供の行動がいちいち可愛い、愛くるしいのは完全に無心で行動しているからです。自我がないから、自我に凝り固まった大人でさえもほほえましくしてしまうのです。
自我というのは相手にも自我がないと間合いや大きさを測定できません。
だから自我対無我はあり得ません。
自我は相手に自我があって初めて成り立ちます。
故に自我が無我と対すると自分を計れないために困惑します。
もしかしたら「器が大きい」なんていう言葉も、その人の自我がなければこその表現ではないでしょうか。
大人になるまで色々な経験や知識を詰め込み、それでいて無我に還る修行というのはこれまたなかなか難しいところではありますが、多分それができたら二つも三つもレベルアップするのではないかと思います。
今の私の「修行」における労力の、ほとんど全てはまさにこれのためだけに費やされています。
ま、労力の割には笑ってしまう程の成果で、自分を徹底的に殴り飛ばしたい気分ですが。
無念無心無想になりきり、無我の境地になる。
自我のカケラが少しでもある人には無我の人にそれを投げつけるのは空気に向かってものを投げるようなもの。水に向かってものを投げるようなものです。全く効果がありません。
無我は相手の悪意や害意も透過してしまいます。
ちなみに私の考えでは善意に関してはそれがもともと無我から来ているのでよい意味で反応すると思っています。
最近、武芸においてこれをよく考えます。
スッと無心に動き、かつ今まで体得してきたことを無念無想にて自由自在に使えること。
ほんの少しばかり近くなってきた気がしますが、遠ざかっている気もします。
理屈ではよく分かっています。
しかしそれにたどり着くのは理屈ではないのです。
これが本当に体得できたら本当に歴史に名が残るかも、なんて考えてしまいます。
私はそれを追い求めている途中、道中にて倒れる程度でいいんですけどね。
自我を無くして道を歩く、では道を歩いているものは何か?
公案のようですがそれが答えそのものでもあるようです。
そのヒントになるような言葉がこれです。
稽古とは 一よりならい 十を知り
十よりかへる もとのその一
利休百首のひとつです。
私はこれで閃きました。
つまり要するに体得したこと、知識として得てきたことをそっくりそのままに、武芸を始める前の自分に戻ること。無垢の(無垢だったかどうか微妙ですが)自分に還ることです。
そんなことができるのか? いや、正直言ってできないかも知れません。
しかしやったことがある人はいますし、例えば禅僧で老師級の方は一度ならずそういう境涯を体験されています。
だから少なくとも絶対不可能ではないと思うのです。
言っておきますが、無心を武芸に応用するなんて事は、かなりどうでもよい些末なことです。あくまで一応用に過ぎません。
そんなことに全人生を投入している私は要するに器が小さく努力も足りないだけです。世の中には確かにこれを易々とやりのけてしまう人が何人もいます。
別にそんなことをしなくても生きて行くには不自由しませんが、取りあえず生きている間に何かしらしないと生きてきた価値が無くなってしまうため、ライフワークにしてますが、その途中で色々な出会いや発見があることは真に喜ばしきことではあります。
平成二十四年葉月二十五日
不動庵 碧洲齋